1874年、日本は台湾に出兵した。 台湾に漂着した宮古島の住民69名のうち
54名が先住民に殺害された牡丹社事件などから、自国民の保護を主張して
出兵したのである。 清朝政府もこれを認めて、賠償金を支払った。

この出兵を切っ掛けに、清朝は台湾の統治に積極的に乗り出した。 有能な
官吏を派遣して、統治制度の改革と開発を行った。 1885年、清朝は台湾を
中国の正式な一省に格上げし、1892年には、台北が台湾省の行政の中心になった。
しかし、清朝の台湾統治の改革は、さほどの成果を見せることはなかった。
1894年、日清戦争が勃発し、訓練と装備で勝る日本軍が勝利した。

1894年4月、日本と清朝との間に下関条約が結ばれた。 条約には台湾と
澎湖諸島が日本へ割譲されることが記されていた。 6月、日本軍は台北に入り、
台湾総督となった海軍大将の樺山資紀が、日本による統治の始まりを宣言した。
これで、211年続いた清朝による台湾統治は幕を下ろしたが、清朝は依然として
中国大陸のほぼ全域を統治していた。

9f74862c

【日本の統治時代】

日本人が台湾に入ると、清朝の役人や軍は中国大陸へ逃亡したが、移住民の子孫や
先住民たちは激しく抵抗し、特に、先住民は、その後も長く、ゲリラ的な抵抗運動を
散発的に続けた。 日本の台湾領有の目的は、アジアに君臨していた欧米の勢力に
対抗する、列強国になるためのひとつの手段であった。 まず日本は、台湾を米や
砂糖などの食料供給地として利用する。

そのために、自作農を増やすための土地制度の改革、米の品種改良、新たな耕作地の
開墾、用水路やダムの整備を行った。 これらの結果、米や砂糖などの生産高は、
日本統治時代を通じて増え続けた。 特に砂糖は、日本の領有以前から台湾の
輸出品であり、砂糖の生産が増すと、日本の需要を満たすばかりではなく、世界でも
主要な生産地となった。 また、日本は、鉄道を敷き道路を整備し、港を改修し拡張
すると共に、郵便や電報、電話といった通信網も整備した。 また、各地に保健所や
病院も開設するなど、伝染病の予防と公衆衛生にも努めた。

更に、初等教育から大学までの学校をつくり、教育制度を整えた。 この教育は、
日本語によるもので、日本語を話せる台湾住民も増えて行った。 そして、日本の
旧制高校や大学へ留学するなど、高等教育を受ける台湾住民の学生も珍しくは
なくなった。

このして発展の結果、1930年になると、台湾は工業地域としてもスタートした。
繊維工場、製油所、製糸工場、肥料工場とはじめとする加工施設も建設された。
日本の統治は、強い警察力を用いた厳格なものだった。 し かし、その一方で、
ヨーロッパの列強による植民地には見られない、さまざまな改革が行われて近代化が
進み、協力する現地住民も増え、その抵抗は、法律での平等を求める運動となった。
また、その運動に協力したり共感する日本人もおり、日本人と台湾住民との間には、
対立もあれば、信頼もあるといったさまざまな関係が生まれた。

【お勧めの一冊】



>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
にほんブログ村