16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。
16世紀半ば、台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』
と叫んだと言う。 『麗しの島』という意味である。 そして、その後の
数世紀の間、ヨーロッパ人達は台湾をフォルモサと呼んだ。

17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易の
ために拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に
上陸。 その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
オランダに委ねて行く。

一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの
要塞を築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の
混乱平定に力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、
ライバル、スペインをこの島から追い出した。 1642年には、台湾に居る
ヨーロッパ人は、オランダ人だけとなった。

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【オランダ統治時代】

オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を
奨励し、島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を
先住民や移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の
国々を相手にして中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させた
のである。

オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製
陶磁器を仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、
習慣性のある麻薬、アヘンを買った。



より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を
奨励した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。
オランダから来た宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい
信仰を先住民に教えるために学校を建てた。

オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な
税を課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や
武力を用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の
反乱である。 約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃
したのだ。 しかし、棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで
敗北する。 戦死とその後の虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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