1025年、ボレスワフ1世が死ぬと、ポーランドには激しい内戦が起こった。
ボレスワフ1世の曾孫ボレスワフ2世は、貴族達と争い、クラクフのカトリック
司教は貴族側に味方した。 1079年、ボレスワフ2世が司教の殺害を命じた
ことで教皇はポーランド全土に制裁を科した。 1100年代初期、ボレスワフ2世の
甥ボレスワウ3世は、ポーランド北西部のポモルゼの領有を巡って神聖ローマ
帝国の軍隊と戦った。 彼は王国を何人も居る息子達に平等に分割するよう
遺言したので、ポーランドの力は弱まった。

続く2世紀の間、この分割相続制度によって、多数の小さな半独立の公国が出来た。
ポーランド貴族と小さな公国の貴族達は、互いに争いを繰り返し、ポーランドの
民衆は無秩序で無力な状態に陥って、この国の長い国境線を防衛することが
出来なくなった。

王国内の混乱に乗じて、カトリックの宗教戦士の集団、ドイツ騎士団が北から
攻撃して来た。 北東のバルト海沿いにあるリトアニア国家もまた、この国の
領土を侵略した。 1240年、東アジアのモンゴル人の大軍は、ポーランドと
東ヨーロッパの多くの地域を荒廃させた。 モンゴル人がヨーロッパから撤退
すると、ポーランドは、次第に国力を回復し始めた。

ドイツから職人や商人達が招かれて、ポーランドの都市や港湾に定住した。
ポーランドはまた、ヨーロッパの他の国々での迫害を逃れた大量のユダヤ人を
喜んで受け入れた。 クラクフやグダニスクは、北ヨーロッパ諸都市の商業
連合体であるハンザ同盟に加盟し、その結果、この2つの都市や王国内の他の
都市では、商業貿易が繁栄した。

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【カジミェシュ大王】
1295年、ポーランド王プレシュミスワフ2世が暗殺されると、王位の継承を
巡って争いが起こり、プレシュミスワフの娘婿チェコ王ヴァーツラフ2世が王位を
要求してポーランドに攻め込んだ。 1305年、ヴァーツラフが死ぬと、ピアスト
王家の一員が教皇の支持で、1320年に国王ヴワディスワフ1世として、クラクフで
戴冠式を行った。 ヴワディスワフは戴冠式行ったクラクフをポーランドの
首都と定めた。

ヴワディスワフの息子カジミェシュ3世が1333年に国王になった時には、
ポーランドはまだ弱体な分裂国家だった。 カジミェシュは、国王の権力を強化
して、国内の紛争を終わらせ、国家を再統一した。 カジミェシュはまた国境の
安全をはかるため、リトアニアと同盟し、南方の強大国ハンガリーとも同盟を
結んだ。

カジミェシュは、多くの国内改革を行った。 農民の権利を保護する法律を作り、
法体系や行政制度を組織し直した。 また、教育にも力を入れ、1364年、
クラクフにこの国最初の大学を創設した。 カジュミェシュ3世は、その功績に
よって、後世の人に大王と呼ばれるようになった。

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