現在は、東北の中心地として発展著しい仙台なのだが、現在の美しい杜の都の
街並みは、戦後の焼け野原から長年を掛けて復活したもので、特に、現在仙台の
表玄関となっている仙台駅西口付近は、アメリカ軍のB-29によって、焼け野原と化
したため、何も残らなかった。

仙台駅東口付近は、逆に戦後も焼け残ったため、20年ほど前までは、戦争で焼けた
地域と焼け残った地域がハッキリと分かったのだが、現在では、東口も大々的に
再開発が行われたため、その差が殆どなくなった。



1945年(昭和20年)5月20日、B-29による仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が
上空から撮影された。 アメリカ軍は、仙台を工業面での重要性はないが、住宅が
密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した
都市であり、爆撃による心理的効果も期待出来ると評価していた。 アメリカ軍は、
大規模空襲を行う前に、ビラを上空から撒き空襲を予告しており、そこには、
『仙台よい町森の町 7月10日は灰の町』と印刷されていたという。 更に連合国は、
ラジオでも恐怖を煽るために、繰り返し『仙台にお邪魔します』と放送したという。

1945年7月10日、テニアン島からB-29 124機が飛び立ったが、そのうち1機は引き
返した。 B-29 123機は、午前0時3分から2時5分まで、仙台中心部を大規模
攻撃し、約912トン、1万2,961発の焼夷弾を投下した。 仙台上空に到着した
爆撃機は、3~5機編成で飛行し、25回に渡る空爆を敢行した。 この時の死者は
1,399人にも上り、負傷者は1,683人となった。 主に仙台駅西側の約500
ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1,900戸にも上った。



仙台空襲では、仙台城付近も空爆されたため、その際に大手門や当時国宝であった
伊達政宗の墓所、瑞鳳殿も焼け落ちた。 戦後の復興において仙台では、大幅な
道路の拡張が行われ、杜の都を取り戻す活動が行われた。 仙台が城下町であり
ながら、片側5車線もの幅の広い道が整備されているのは、戦後の復興計画による
ものであり、戦後の更なる仙台の発展を見越して計画されたもの。 計画当初は、
余りにも広い道路であったため、一体何に使うのかと揶揄されたという。

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伊達政宗が仙台にやって来た際、それまでにあった『千代』の街と城は徹底的に
破壊され、新たな城下町が建設された。 その後、日本を二分した内戦『戊辰戦争』
において、仙台藩は総指揮を取ったが、戦に敗れてしまったため、仙台の街は
官軍によって徹底的に破壊された。 太平洋戦争でも徹底的に街が破壊され、
2011年には、東日本大震災によって、今度は沿岸部が消滅した。

『仙台の街はフェニックス』という言葉があるが、それは、過去に何度も破壊され
ながら、その度に着実に復興、復活をして来た仙台の街の歴史を物語っている。

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