明治17年(1884年)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の
頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど、広い視野を持って
いた。

五十六の名前は、当時の父親の年齢から採ったもので、母親も45歳と高齢であった。
旧長岡藩家老、山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。 文武両道、
質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きが掛かる一方、石油や航空に早くから
注目していた。 リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に航空の重要性を
力説した。 太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。

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当時、仮想敵国であったアメリカを視察した山本は、アメリカとの開戦には、
あくまでも反対であった。 『この身滅ぼすべし、この志奪うべからず』と、
わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、
郷土を愛し、慈悲の心を強く保っていたからこそである。



だが、その意に反して、連合艦隊司令長官として未曾有の大戦争の指揮を執った。
長岡空襲は、山本の故郷という理由で行われた。 TVで米国マスコミ取材に当時の
軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたと
語っている。(ただし、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設が
あり、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。

昭和18年(1943年)ブーゲンビル島で戦死。 最終階級は元帥海軍大将。 激動の
世紀に、しなやかかつ、力強い心で生きた山本五十六の人生は、故郷長岡市の
山本五十六記念館で今でも語り継がれている。

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