1953年、スターリンが死ぬと、スターリンの遺体も永久保存され、レーニン廟の
中に置かれた。 1956年20回党大会で、フルシチョフは、スターリンが誠実な
党の働き手を不法に逮捕し、処刑したことを暴露し、その個人崇拝のおぞましい
結果を批判する秘密報告を行った。 強制収容所に囚われていた人々が解放され、
社会に復帰した。

その後、1962年にもフルシチョフは第二次スターリン批判を行い、スターリン体制
からの決別を図った。 1964年、フルシチョフにより、スターリンの遺体は廟から
出され、火葬の後、廟の背後に埋葬され、そこに小さなスターリン像が置かれた。
フルシチョフの時代には、ソ連は宇宙開発でアメリカを追い抜き、1956年には、
初の人工衛星の打ち上げに成功し、更に、1961年、ガガーリンの乗った宇宙船
ボストーク号の打ち上げにも成功した。

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地上の生活も改善された。 プライバシーの確保に欠けるコムナールの不便さは
次第に深刻化して、住宅建設も急がれた。 1960年代には、カリーニン大通り
(現在のノーヴィ・アルバート通り)に15階を超える巨大なマンション群が出現
した。 『書物を開いたような』といわれる斬新な形が見る人の目を惹いた。
その設計者であるコソーヒンや、ムンドヤンツ等は、都市建設分野でグランプリを
獲得した。

その一方で、1950年代の末以来、無趣味で安価な集合住宅もおびただしく建設
されていた。 フルシチョフの時代に、ラグチェンコという建築技師が発案して
設計したと言われるもので、階数はおしなべて5階、薄い壁の半分がレンガ、半分は
コンクリートで、天井は2.48mという低さだった。 エレベーターはなかった。

モスクワだけではなく、ソ連の至るところで、この規格のアパートが建設された。
この手の建物は、市民の間で『フルショーフカ』と呼ばれた。 1970年代には、
モスクワ市民の10%がフルショーフカに住んでいたと言われている。 それでも、
コムナールカよりは、ましだったのである。 流石にその後、ロシアの至る
ところで、フルショーフカの建て直しが始まっている。

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フルシチョフは1964年、その改革の進め方に不満を持つ政治局員たちによって、
クーデター的に権力の座から追われた。 年金生活者となったフルシチョフは、
密かに回顧録を書き、当局の制止を無視して、1970年に西側で出版させた。

1971年にフルシチョフが死ぬと、遺体は、クレムリンの壁ではなく、ノボデビッチ
墓地に葬られた。 フルシチョフの娘たちは、フルシチョフが第一書記時代
『ぶたのしっぽ』と酷評して弾劾した彫刻家ネイズヴェストヌィーに墓碑の
デザインを依頼し、これが墓地に建てられた。

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フルシチョフを追い出したブレジネフらの体制は、20年間続いた。 ソ連の社会は、
ブレジネフ時代に最も安定した時期を迎えた。 私生活の自由が保障され、家庭や
友人の間では何を言っても良かった。 生活は、豊かではないが、安定していた。
電話代、電気代、ガス代、水道料金などは、著しく安価であった。

電話は、市内だけであれば、いくら話でも無料という時代もあった。 医療費や
居住費もほとんど無料に近かった。 年金生活者や物価も安定していて、老後の
心配をする必要がなかった。 パンやジャガイモのように必要なものは、必ず
買えたし、長い行列に並べば、バナナのような珍しい物でさえ手に入れることが
出来た。

それに、必要であれば、闇で物を手に入れることが出来た。 禁じられた書物も
禁じられた歌のテープも個人が読んだり、聴いたりする分には問題がなかった。
だが、公的な場面では統制が厳しく、人々はそれに従わざるを得なかった。
この結果、本音と建前の使い分けが拡大し、社会の力が失われることとなった。

公的な場面でも統制に従わない人は、異論派と呼ばれ、彼らは、タイプ打ちの地下
文章を配布した。 時に彼らは、赤の広場やプーシキン広場で行動に出ることも
あり、逮捕され、裁判に掛けられた。 このような抵抗の地下水は、途切れ
なかった。

やがてブレジネフの体制も行き詰まりを見せるようになった。 ソ連は、緊張緩和
政策でアメリカと付き合ううちに、体制の力が弱まり、1979年に始まった
アフガニスタン戦争の負担にも苦しめられた。

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