伝説によれば、キエフには今から1500年前に集落が作られていたという。
ドニエプル川中流にあたるこの辺りに住んでいたのは、東スラブ人に属する
ポリャーネ族であったが、北欧からやって来て支配者となったのは、バイキング
だった。 9世紀には、バルト海と東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを
結ぶ交易路があって、ドニエプル川を通じて黒海へ出るルートがその重要な
一環をなしていたのである。

古事記にあたる古い原初年代記には、こう書かれている。 『スラブ人の間で
内輪もめと争いが起こったため、彼らは、バイキングの元へ使いを送ってこう
言わせた。 我々の土地は広くて豊かであるが、秩序がない。 公としてやって
来て我らを治めてもらいたい。』

こうして招かれたのが、リューリックを頭目とするバイキングの一族だった。
歴代の公の名前から判断して、彼らは、数世代のうちに急速にスラブ化したらしく、
リューリクの公統は、モスクワのイワン雷帝の子供の代まで続くことになる。 

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はじめのうち、バイキングもポリャーネ族も多神教を信じて偶像を崇拝していた。
キエフに君臨していたウラジーミル公が木製の6基の神像を丘の上に建てたという
記述が原初年代記の980年の頁にある。 主神は、ペルーンと呼ばれる雷神で、
頭部は銀で作られ、口ひげは金だったという。 その他に、太陽を象徴する神や風を
司る神等がいた。

そのウラジーミル公が東ローマ帝国からキリスト教を受け入れるのが988年のこと
だった。 唯一の神を絶対者とあがめるキリスト教の考え方が、キエフの王座に
あって全ロシアを統治する支配者にとって必要になったためと考えられている。
ギリシャ人を通じて受容したから、いわゆる、東方教会に属するギリシャ正教の
一派である。 ローマに本拠地を置くカトリック教会の信仰ではなかった。
このことが、キエフがウクライナのみならず、全ロシアのその後の運命に深く
関わってくる。

13c1486

ウラジーミル公は、自分が洗礼を受ける条件として、東ローマ帝国の皇帝の妹
アンナを后に求めた。 彼女は、泣く泣く帝都のコンスタンティノープルから
離れたと原初年代記は伝えている。 彼女がキエフに携えたのは、キリスト教の
信仰と僧侶達だけではなかった。 当時の世界の中で最も先進的な技術を備えた
ビザンチン文明というシステムが若々しい信仰国家ロシアにもたらされたのである。

アンナを出迎えたウラジーミル公がキエフに戻って来ると、ただちに異教の
偶像を焼き捨て、ペルーンの像だけは馬の尾にゆわえて丘から引き摺り下ろし、
ドニエプル川へ捨てさせた。 そして、キエフの全ての住民をドニエプル川に呼び
集めて一斉に洗礼を受けるように命じた。

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