仙台藩白老元陣屋とは、 今から約150年前の江戸時代末の安政3年(1856年)に
置かれた陣屋跡。 当時、北海道はまだ蝦夷地と呼ばれ、日本はまだ鎖国をしていた
時代であった。 幕末の日本沿岸には、アメリカやロシア等の諸外国が交易を
するように迫って来ており、箱館(函館)が開港となった時、幕府は、松前藩だけで
蝦夷地を守るのは困難と判断し、仙台藩をはじめとする東北地方六藩に蝦夷地の
警備を命じた。



元陣屋とは、本陣を示す意味があり、仙台藩では、十勝の広尾、道東の厚岸と根室、
更に、千島列島の国後(トマリ)と択捉(フウレベツ)の5ヶ所にも出張陣屋という
脇陣屋を置き、太平洋沿岸の東蝦夷地一体の警備にあたった。

赤い部分が仙台藩の担当地域。 東蝦夷のほぼ全ての警備にあたった。
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幕府は当初、仙台藩の元陣屋を当時交通の要所となっていた勇払(苫小牧)に
置くように命じた。 ところが、仙台藩の重役三好監物が現地を調査したところ、
勇払は湿地帯で陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入りには適していないため、
箱館に近く、自然の地形をそのまま利用出来る白老が選ばれ、幕府にこれを
許された。

仙台から白老までは、約800キロほど離れているが、記録によると、この間の
移動は、早い時で20日間、川の氾濫や津軽海峡のしけ等で2ヶ月以上も掛かる
ことも珍しくはなかった。

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仙台藩元陣屋には、約120人の藩士達が毎年交代で故郷を離れ、慣れない気候風土の
中で暮らしていた。 藩士達は、弓や剣術の稽古の他、火縄銃や大砲の訓練に
励んだ。 当時の白老には、400人ほどのアイヌ人達が住んでいたが、北の地で
生活をするの多くの知恵を彼らから学んだ。

山と川等、自然の地形を巧みに利用した白老元陣屋の面積は、66,000㎡で、堀と
土塁と4つの門に囲まれたお城の形をしていた。 内曲輪は、上級武士達が住んで
いたところで、本陣や勘定所、兵具庫、穀倉等の主要な建物があった。 また、
外曲輪には、下級武士達が暮らす4棟の長屋と武芸をみがく稽古場等があった。

慶応4年(1868年)、約260年続いた徳川幕府が倒れ、蝦夷地の警備にあたっていた
陣屋の武士達は、賊軍と呼ばれて箱館から攻めて来た新政府軍に追われるように
白老を去った。 こうして、仙台藩元陣屋は、12年間の歴史を閉じたのである。

その後、東北各地では、仙台藩を中心として、戊辰戦争が始まったが、東北の
各藩は、この幕末の蝦夷地での警備に資金を大量に費やしてしまったため、
最新の武器を揃える事が出来ず、旧式の武器だけで戦うこととなっため、
奥州越列藩同盟は、新政府軍に負けたとも言われている。

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