1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
あった。

ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
掲げられている建物である。

ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
政府の公式行事、パレードの場となった。

広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
のである。

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革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

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