1612年、徳川秀忠によってキリスト教の禁教令が布かれた。 当時天草は、
関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名、小西行長に代わり、唐津領主、寺沢広高が
治めていた。
人々は実際の石高の2倍にあたる重い年貢に苦しめられていたが、更に禁教令が関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名、小西行長に代わり、唐津領主、寺沢広高が
治めていた。
布かれたため、ママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民に向かって『25年後、
16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう』との預言を残し、
マカオに追放されたと伝えられている。 その後、大凶作に見舞われた天草の
人々は、信仰の禁止と厳しい年貢の取り立てに増々追いつめられて行った。
そんな折、16歳の少年、天草四郎が現れ、天草一揆軍の最高指導者となった。
天草四郎は、元和7年(1621年)、あるいは、元和9年(1623年)に生まれたと
されており、寛永15年2月28日(1638年4月12日)に島原の乱で討ち取られるまで、
最高指導者とされた江戸時代初期の切支丹である。 本名は益田四郎で、諱は
時貞と言った。 豊臣秀吉の息子である、豊臣秀頼の落胤であったとする伝説も
あるが信憑性は低い。