反乱軍の勝利に抵抗し、スペイン軍は、1576年にアントウェルペンを略奪した。
ベルギーを含む全ネーデルランドは、カトリックもプロテスタントも協力して
スペインからの独立を決意した。 まず、内部の宗教的な対立を解決する必要上、
1576年、各州の代表達は、ゲント盟約を結び、宗教の自由を法的に定めた。

1577年、ネーデルランド諸州は、満場一致で、フェリペ2世が全スペイン軍を
撤退させて、宗教的自由を認めない限り、スペイン側の新しい総督、
オーストリアのヨハンを認めないと宣言した。 フェリペはこの条件に同意した。
しかし、各州の連合は短命に終わった。 主にカトリック教徒の多い南部諸州の
指導者達は、北部諸州を支配下に収めたカルヴァン主義者達に対して、根強い
不信感を持っていた。 1579年、南部のカトリック系諸州のいくつかが、アラス
同盟を組織してスペイン王の権威を受諾した。 南部諸州の分裂は、2、3週間後、
北部諸州がスペインからの独立を宣言するに至って、ますます深くなった。

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1580年代には、新任のネーデルランド総督アレッサンドロ・ファルネーゼが、
ネーデルランド諸州での宗教的分裂を利用して、ゲント、ブリュッセル、
アントウェルペンの3市を征服した。 3市のいずれにもフォルネーゼは、
プロテスタント達が自発的にその都市を出て、北に移住することを認めた。
しかし、スペインの北部諸州を再占領しようという試みは成功せず、北部諸州は、
ネーデルランド独立連合諸州を名乗るに至った。 これが、後のオランダ
である。

独立連合諸州の産業は繁栄し、オランダのいくつかの港湾都市は間もなく、
交易の中心地としてのアントウェルペンの地位を奪った。 その間に、スペインは、
オランダとの戦争の経費を調達するため、南部諸州に重い課税を課したので、
諸州の経済状態は、悪化した。

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【戦争の被害】
こうして、ネーデルランド南部諸州は、オランダとは異なった道を歩むこと
となり、これが、現在のベルギーの成立に繋がった。 ベルギー領域は、
スペイン系ハプスブルグ家の領土として残り、1633年、国王フェリペ4世の
統治下に入った。 フェリペ4世は、30年戦争(1618~1648)の最終段階で、
ベルギー領域を戦乱に巻き込んだ。 フランスは、オランダ等と協力して、
最終的にスペイン軍を敗北させた。

この勝利によって、オランダは、戦後の平和条約で有利な条件を獲得した。
スヘルデ河口を含むブラバンド州都フラマン州の一部は、オランダに与えられた。
オランダは、地域の商業上の優位を確保するため、アントウェルペンの港を
封鎖し、ベルギー領域の経済は、更に衰退した。 30年戦争が終わっても、
領域内のフランスとスペインの敵対関係が続いた。

17世紀の後半、フランスは、ベルギー領域を南部から少しづつ併合して行った。
1678年、フランスは、イーペルとゲントの両都市を占領した。 1697年、
ライスワイク条約によって、フランス軍のベルギー占領は、最終的に集結した。
50年間、フランスとスペインの戦場となったベルギー南部の広い地域は、廃墟と
なってしまった。

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