長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
からの独立を宣言した。

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