都市には市が付き物で、モスクワでは、14世紀の後半から、クレムリンの東側の
城壁の外が商売の売り買いの場となっていた。 16世紀30年代にクレムリンと
キタイ・ゴロドがまとめて囲まれた時、市の立つ広場は広げられた市域での
中心地となった。 支配する者と支配される者が出会う場所という意味でも、
それは国家の中心とも言えた。

最初は単に市とか市の広場の名称で文献に現れるが、イワン3世が火事の際、
火の手がクレムリンに及ぶのを防ぐ意味で、240mの幅の空間に建物を建てる
ことを禁じたことから、16世紀には、ポジャール(火除け)の広場と呼ばれた。
今のように赤の広場(赤は『美しい』を意味する)の名前が一般化するのは、
17世紀の後半からである。

建物は作れなくても、立売や露店を出して商売することは自由であった。
時代が下ってからは、堀をまたぐスパスカヤ門の橋の上では、書物や版画が
売られ、一番北の端のニコリスカヤ門の周りには、ブリヌイ(クレープ)や
パイのような食べ物売りが集まり、その門の近くにある大砲の台座の脇には、
クワス(黒パンから作る飲み物)やリンゴ、長革靴、ろうそくを商う店が
並んでいた。 同業者が固まってひとつの列を成しているのが通例であった。

karasnaya

広場を挟んでクレムリンと向き合っているのが、キタイ・ゴロドである。
赤の広場に建物を作らせない代わりに、16世紀の末、ボリス・ゴドゥノフの
命令によって広場の脇にクレムリンと平行するように常設のゴスチーヌィー・
ドゥヴォール(商人館)を建て、そこで商品を展示したり、営業を行わせ
たりした。 ソ連時代には、グム・デパート(国営百貨店)となった。
キタイ・ゴロドの一角には、イギリス、イタリア、ドイツ等の外国の商館も
置かれていた。

赤の広場のように人が集まる空間は、政治的なパフォーマンスの場にもなった。
イワン3世とソフィアの孫にあたるイワン4世は、非常に残忍なツァーリだった
ことで有名で、雷帝というのが彼の通り名であった。 国家を収め始めた
初期には、宗教会議を招集して法律を定めたり、それまでの年代記を集大成
したりして積極的な姿勢を示すが、1560年からは、周囲に対して、威圧的な
態度で臨み、彼の治世の間に赤の広場で処刑された貴族や役人の数は、何百人、
あるいは、何千人とも言われている。

アムステルダムで発行された前述のクレムリンの図にも『処刑された人々の
ための堀ばた教会』の絵が5堂も描かれている。 これらの教会は、18世紀に
なって取り壊され、その祭壇がワシリー大聖堂に移されたので、今は姿を留めて
いない。 赤の広場の一角にローブノエ・メストと呼ばれる円形の石壇があるが、
かつてここは、ツァーリの発布する法令が読み上がられた場所である。

112117a

17世紀に最も多くの群衆を集めたのは、復活祭1週間前の聖枝祭の行列だった。
キリストがエルサレムに入ったとされるこの日、総主教が乗るロバの手綱を
ツァーリが握り、全ての貴族や聖職者や聖歌隊や銃兵隊等が付き従って、
ウスペンスキー大聖堂からスパスカヤ門を通って、赤の広場に出て、ローブノエ・
メストまでにぎにぎしく行進したのである。 それは、国家の最高権力者たる
ツァーリが謙譲の美徳を民衆の前に示すための行事だったと考えられる。
行進の最後には、ツァーリと総主教がローブノエ・メストに並んで立ち、民衆の
歓呼の声に応えることで締めくくられた。

【お勧めの一品】


>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村