オーストリアの国民の大部分は、ドイツ系であるが、その民族構成は、初期の
歴史時代に起こった異民族の侵入や、移住を反映している。 ハプスブルク家が
13世紀に権力を握る以前には、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、マジャール人、
スラブ人が次々とオーストリアの河川沿いや山間の谷間に植民地を建設した。

その後、クロアチア人、スロベニア人、ハンガリー人らが、ブルゲンランド、
ケルンテン、シュタイヤーマルクに移動した。 北部と東部では、異民族同士の
結婚が多く見られた。 この地域では、道路やドナウ川の水運党の交通が発達
したが、それは、旅行や定住が容易だったため。 チロル、フォアアールベルグ、
ザルツブルグ等の山岳部諸州では、大多数の住民がドイツ系となっている

オーストリア国民の大多数は、ドナウ川流域と国の東半分に住居している。
このうち、約56%が農村部に住んでいる。 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア、
チェコスロバキア、ハンガリーからの移民や政治的亡命者が増えた。 1980年代
には、トルコやユーゴスラビア等の比較的貧しい国から20万人近くの未熟練
労働者達が、仕事を求めてオーストリアの各都市にやって来た。

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【言語】
ほとんどのオーストリア国民は、ドイツ語を使用している。 但し、この国の
ドイツ語には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドには、
ハンガリー語を話す人達も居る。 ケルン店に住む2万人のスロベニア人の
多くは、スロベニア語を使う学校に子供を通わせている。

【音楽】
オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ王朝時代に教会や修道院で
演奏された宗教的な賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガー達の
叙情詩は、各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者達の人気を集めた。

14世紀から16世紀に掛けては、ドイツの音楽家達がオーストリアに来て、
合唱団や楽団の指揮を取った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、
オーストリアの作曲家達は、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合
させて、ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

18世紀には音楽は、王侯貴族達の公演を受けて、ウィーンその他の都市で
盛んになった。 富裕な貴族エステルハージ公の管弦楽やソナタを数多く
書いた。 彼は、生前に多数の作品の楽譜を出版し、ヨーロッパで最も
有名な作曲家の一人となった。 こうして現代音楽は誕生した。

モーツアルトは、少年時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、
優れた歌劇、管弦楽、器楽等を含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の
作品の多くは、批評家達に賞賛されたが、演奏家や歌手達にとって、
モーツアルトの曲は演奏しにくかった。 生活苦と闘いながら、
モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



ルートヴィヒ・ヴァン・ベートベンは、ドイツ生まれだが、成人してからの
生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートベンは作曲とピアノの演奏で、
ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の絶頂期に聴力を失い始め、
聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った後も、表現力豊かで力強い
音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家達に影響を与えた。

フランツ・シューベルトは、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を数百曲も作曲した。
彼の作品の中で、最もポピュラーなのは、ピアノ演奏付きの歌曲、リートである。
グスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーは、どちらも19世紀後期に長大で
劇的な管弦楽を作曲した。



ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・ワルツを多数作曲し、
父は、『ワルツの父』、息子は、『ワルツの王』と呼ばれた。 フランツ・
レハールは、オペレッタの作曲家で、彼等の作品は、今もウィーンでは
人気が高い。

20世紀になって、この国の作曲家達は、洗練された新しい作曲技法を次々に
作り上げた。 アルノルト・シェーンベルグ、アルマン・ベルグ、アントン・
フォン・ウェーベルンは、伝統的なハーモニーを用いないで歌劇や管弦楽を
作曲した。 エリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトは、ポピュラーソング、
ミュージカル、映画音楽を作り出した。 この国では、今でも、軽い歌劇と
重厚な管弦楽のどちらも盛んとなっている。

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