1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子のフランツ2世が
相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく規制した。
この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃と
なっていたマリー・アントワネットが処刑された。 1795年、オーストリアと
フランスの戦争が始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は
占領された。

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1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を打ち
破った。 1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。
この新しい帝国は、現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ボヘミア
(チェコ)、その他、東南ヨーロッパの諸小国をも含むものだった。 1806年、
領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ帝国は、ナポレオンによって、解体
された。

ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、
イギリス、ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年に
オーストリアに侵入、ウィーンを占拠し、フランツ2世は、娘であるマリー・
ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが、1812年、ナポレオンが、ロシアに
敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと戦った。
1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて、
ヨーロッパの国境を定めた。 この会議で、オーストリアは、ヨーロッパの
中部、および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦であった、
ザルツブルグ大司教管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国も
オーストリアの領域となった。 神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを
盟主とするドイツ連邦が成立した。

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【ウィーン会議】
ウィーン会議は、19世紀前半のウィーン体制を成立させることとなった
重要な会議であり、パリ会議(1856年、クリミア戦争後の講和会議)、
ベルリン会議(1878年、東方問題での国際会議)と並んで、19世紀の
三大国際会議のひとつとされている。 ウィーン会議では、オーストリアの
代表として活躍した、クレメンス・メッテルニヒは、その後国内の政治を
一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持するために、政治活動を
制限し、出版の自由を規制する政策を採った。

『会議は踊る、されど進まず』という句は、ウィーン会議の議事が進行
しないことを皮肉った言葉で、オーストリアの将軍リーニュ公が言った
という。 ザクセン帰属問題、ドイツの組織問題、ワルシャワ大公国処理
問題でオーストリア、プロイセン、ロシアが対立。 イギリスは、ロシアの
進出を警戒し、各国代表は互いに牽制し合って話し合いは進展せず、舞踏会
だけが綺羅びやかに続けられた。 しかし、1815年3月、ナポレオンの
エルバ島脱出の知らせを受け、急遽結束することになった。

新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は
低かった。 ウィーン、リンツ、グラーツ等の都市では、労働者は農民と
連帯して、ハプスブルク政府の変革を要求し始めた。

1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての
力が弱く、ハプスブルク一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は、
一向に進まず、1840年代半ばには、経済危機と食料不足のため、農民と
労働者の間に暴動が続発した。 大学の学生達も労働者と合流して、新しい
政府と憲法を要求した。 首相大臣のメッテルニヒは、辞任してイギリスへ
亡命した。

メッテルニヒ政権に代わって比較的リベラルな政府が出来、人民代表会議が
開かれた。 人民代表会議は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、
その他の法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの
街頭で暴動が起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年
8月、ハプスブルク家に忠実な軍隊がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に
鎮圧した。 12月、ハプスブルク一族や顧問官達は、フェルディナントと説得
して退位させ、その甥のフランツ・ヨーゼフを即位させた。

【ウィーン会議の時代のヨーロッパの国境】
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【フランツ・ヨーゼフ皇帝】
フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人員代表会議廃止して、ハプスブルク政権の
権威を回復した。 1855年、皇帝は、国内の学生の管理を、ヨーゼフ2世の
改革の以前のようにカトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の
来援を要請してハンガリー内の反乱を鎮圧した。

皇帝は、国内ではこのような強圧策をとる一方、外交の上では、数々の戦争で
敗北を重ねた。 1859年、オーストリアは、イタリア北西部の王国
サルディニアに敗北し、イタリア北部の領土を半ばを失った。 これは、
1864年、プロイセンとの戦争に敗れ、ドイツ領邦の盟主としての地位を
放棄した。 この時プロイセンに味方したイタリアにヴェネツィアを割譲し、
帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

これらの失敗が続くなか、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな
立法機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。  帝国議会は、
全てのオーストリア市民に基本的な人権を保証する法律を制定した。

1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立した王国の成立を認めた。
こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリー帝国は、
ドイツ帝国、および、新興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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【帝国の内紛】
19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
新生党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として、自由党が出来、
カトリック教会を支持する農民と労働者の党として、キリスト教社会党が
出来た。 社会民主党は、経済システムの変革と私営企業の国営化を主張した。

国内では、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、
クロアチア人等のグループが自治を望んでいた。 だが、これらの諸民族に
自治を認める立法は、どこの政党の支持も得られなかった。 これらの少数
民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
後援があった。

1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
増々悪化した。 元々、トルコの領土であった両地域は、かねがねセルビアが
併合したいと望んでいたのである。

1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇帝フランツ・フェルディナントを
暗殺した。 同盟関係によって、ヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き
込まれ、第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
ハンガリーとドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵として戦っていた。
この連合国側には、後に、アメリカが加わった。

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