第二次世界大戦の後、ドイツは、4つに分割され、それぞれが主要な連合国の
占領下に置かれた。 3つの地域は、まもなく『西ドイツ』として統合されたが、
ソビエト連邦に占領されていた地域は、分断され、『東ドイツ』となった。

この2つの国を隔てる国境は、国際社会に新しく誕生した敵対関係の境界線の
一部となった。 新たな敵対関係とは、西側の資本主義諸国と、ソビエトが率いる
東側の社会主義諸国との対立である。 この境界線は、しばしば『鉄のカーテン』
と呼ばれた。

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西側と東側の対立は、『冷戦』と呼ばれ、ベルリンは、その中心となった。
ベルリンは、東ドイツ内にあったが、首都として4つの地域に分割占領されていた。
西ベルリンには、イギリス、フランス、アメリカの占領地域があった。
東ベルリンは、ソビエトの占領地域であった。 1948年、ソビエトは、
ベルリンから他の国々の軍隊を撤退させる目的で、東ドイツを通過する補給物資の
輸送を封鎖した。 これに対して、西側陣営は、食料品と燃料を空輸して対抗した。
この作戦は、『ベルリン空輸』と呼ばれている。 空輸作戦は、およそ1年間続き、
東ドイツの中で完全に孤立していた西ベルリン市民に、昼夜を問わず何百万トン
もの補給物資を空輸した。

しかし、これは、ベルリンの支配をめぐる長い戦いの始まりに過ぎなかった。
1961年までに、200万人以上の人々が東側から西側へと亡命した。 東ドイツ
政府は、西ベルリンの周囲に壁を建設し、東側の市民が西ドイツに逃亡しない
ようにした。

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【ドイツ再統一】
ソビエト連邦は、その後の30年間、東ドイツを支配したが、1970年代に入ると、
ソビエト、東ドイツ等の東ヨーロッパ諸国からなる東側陣営の経済状態が悪化
して来た。 1980年代になると、ソビエトの指導者、ミハイル・ゴルバチョフは、
より民主的な政府を目指して改革を始めた。 同じように東ヨーロッパ諸国でも、
自由を求める動きが強まった。 いくつかの場所では、国境の監視が緩められた。
数千人の人々が『鉄のカーテン』を通って、西側へ流出した。

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1989年11月9日、東ドイツは、国境を開放した。 その夜、喜びに沸く群衆は、
ハンマーやつるはしを使って壁を打ち壊した。 数日後、東ドイツ政府は倒れ、
1990年10月、ドイツは再び統一国家となった。 それは、この国にとって、
新しい試練の始まりでもあった。 東ドイツの破綻した経済と、近代的な西ドイツの
統合には、当初から数々の困難が予想されたが、再統一から、25年を経た今でも、
完全な心の東西の統一は果たされてはいない。

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