1956年10月23日、ハンガリーの首都ブダペストで学生と労働者による
大規模なデモが起きて、暴動へと発展した。 彼らは、多くの政府関係施設や
区域を占拠し、自分達で決めた政策や方針を実施し始めた。 夜になり、
デモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、
大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させる決定をした。 翌24日、
ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆と
ソ連軍の戦闘状態にあった。 他の地域はソ連軍と革命派との間の停戦が
行われたり、ソ連軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が
保たれていた。

2c3w5vtkw

民衆は、ワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、この事は、
再びソ連軍の介入を招く事となった。 10月25日、ナジは戒厳令を取り下げた。
街の人々の中には、ソ連軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。 説得に
応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し、
約700人が集まった。 しかし、突然発砲が始まった。 国会前広場は血の海と
化し約100人が死亡、約300人が負傷した。

1956年10月23日と停戦を挟んだ11月1日の2回、ソ連軍は反乱に対して介入した。
1957年の1月にはソ連は、新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人に
よる改革を止めようとした。 蜂起は、直ちにソ連軍によって鎮圧されたが、
その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ
逃亡した。

4779562

一方、ナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて
大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行され、2年後に処刑
された他、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府に
よって処刑された。 1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ
1,200人が処刑。 この時逮捕された政治囚は、1963年までにカーダール政府に
よって、ほとんどが釈放された。 この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側
では死者が17,000人に上り、20万人が難民となって亡命した。 ソ連側も
1,900人の犠牲者を出した。

ing_countries

ハンガリーでは、この事件について公に議論する事は、その後30年間禁止
されたが、1980 年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。
1989 年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際に、10月23日が
祝日に制定された。

ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が
強まり、1989年に動乱の評価を修正し、復権させた。 ハンガリー社会主義
労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

尚、このハンガリー動乱の直前の1946年に、現在のウクライナ領である、
カルパチアがハンガリー領(スロバキア領)からウクライナへと併合され、
現在に至っている。

【お勧めの一冊】


>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
にほんブログ村