ドイツの現在の首都であるベルリンは、冷戦時代には、この地を巡って
アメリカを中心とする西側グループと、旧ソ連をリーダーとする東側
グループが対立していた。 この対立が発展した事件が、ベルリン危機
(ベルリン封鎖)である。
ベルリンは、ドイツの北東部にあり、約340万人の人々が住んでいる
ドイツ最大の都市。 ドイツは、第二次世界大戦に敗れ、戦争に勝った、
アメリカ、フランス、ソ連の4カ国によって占領された。 東はソ連に、
西はアメリカ、イギリス等に占領された。 ドイツの首都であった
ベルリンは、東ドイツの中にあったが、首都であったため、4つの区域に
分けられて、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連が、それぞれの担当
区域を管理した。
ドイツをどのように管理するのかについては、アメリカとソ連は、当初
から対立していたが、1948年3月20日、ソ連は、アメリカやイギリスの
主張に反発して、話し合いの場から脱退してしまった。 その後、アメリカ、
イギリス、フランスの軍隊が東ドイツを通って、西ベルリンへ陸上移動
する際には、ソ連は、それを検査する権限があると主張し、西ドイツ地域
からベルリンへ送られて来る郵便や品物を制限した。
ソ連によるベルリン封鎖
1948年、アメリカ、イギリス、フランスが、西ドイツでの通貨改革を
西ベルリンでも行おうとしている事に対して、ソ連は猛反発し、鉄道や
道路、河川を通じて西ベルリンを行き来出来ないようにした。 更に、
ソ連は、西ベルリンに向けての食料、燃料、衣料品、電力の供給も停止した。
こうして、ベルリンは封鎖された。
これに対して、アメリカ、イギリス、フランスは、当時約200万人居た
西ベルリン市民への全ての物資を空輸によって補給した。 ベルリンの
封鎖が解かれる1949年5月まで、この空輸は約27万回、空輸した物資は、
総計200万トンを超えたと言われている。 1949年3月、国連の場で
アメリカとソ連がベルリンの問題について話し合いを行い、5月、1年間
続いたベルリンの封鎖がようやく解かれた。
封鎖されている間に、ベルリンでは、東と西に2つの異なる行政組織が
出来上がった。 1949年3月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ
(ドイツ民主共和国)が建国された。 そして、この時点で、東と西の
2種類の通貨が出回っていた。 ドイツは、第二次世界大戦後、西ドイツと
東ドイツに分断されただけではなく、この事件によって首都ベルリンも
東西に分割されてしまった。 この一連の出来事を、ベルリン危機
(ベルリン封鎖)と呼ぶ。
東西ベルリンの問題は、ベルリン危機以降も、冷戦の最前線となった。
1961年には、東西ベルリンの境界線上に、43キロメートルにも渡る
ベルリンの壁が作られた。 1970年代に入ると、東西ベルリンの緊張関係は、
和らぎ始め、東ドイツも少しづつ西側に開かれた社会となった。 すると、
東ドイツでは、社会主義体制に不満を持つ人々が増えて行った。 その後、
1989年には、東ドイツ市民が西ドイツへ大量に流出し始め、ついに、11月、
ベルリンの壁が崩され、東西冷戦は終わりに向けて、大きく進んだ。
1990年に、ドイツが統一した事によって、ベルリンも統一され、統一
ドイツの首都となった。 その後、しばらくは、分断の影響が強く残って
いたが、それらの問題も次第に克服され、EU内でのドイツの地位は不動の
ものとなった。
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