旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの
元で発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、セルビア、
モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの共和国から成り、
セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、
そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を
占めていたセルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。
1980年に、チトー大統領が死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、
それぞれの民族の中で独立を求める運動が出て来た。

1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・
ヘルツェゴビナが次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、
マケドニアのみで、他の地域では、紛争が起きてしまった。

■ スロベニアの独立
スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言
したが、スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。
ところが、10日間で停戦となり、独立に成功した。

■ クロアチアの独立に関わる争い
クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC
(欧州共同体)によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴ
スラビアは解体した事になるが、その前後にクロアチアでは、クロアチア人と
セルビア人による争いが起きていた。 クロアチアでは、クロアチア人が
多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が集中して住んでおり、
多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を
持っていた。 そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方を
セルビア共和国に編入する事を決めた。 その結果、クロアチア人と
セルビア人の対立が始まった。

この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア
領土の3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア
共和国の樹立を宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の
支配地域を攻撃し、制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、
和平条約が結ばれ、1998年には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に
置かれた。

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■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・
ヘルツェゴビナでも、1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。
ボスニアには、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、
セルビア人は、独立に反対して、国民投票を放棄した。 こうした中、1992年
4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が入り乱れての紛争に
発展した。

この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって
作られた、(新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を
支援したため、セルビア人は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に
優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、
クロアチア人とムスリム人とが、残りの領土で争った。 ボスニア紛争では、
『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、国連の場でも、民族浄化に
対する非難が行われた。

旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、
UNPROFOR(国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。
しかし、この試みは、上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも
虐殺が起きた。 1995年には、セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が
非常に激しくなり、国連等の人道支援物資も、上手く目的地に届かないような
状況が続いていた。 1995年7月、2,000人のセルビア人の兵士が、ムスリム人が
多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。 街から逃げ出した
ムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、7,000人
以上の命が失われたと言われている。

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■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ
紛争への介入を強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、
ユーゴスラビア連邦共和国に対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。
そうしたなか、1994年3月、ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を
樹立する事で合意。 しかし、7月、セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が
提案した和平案を拒否した。 セルビア人に対する国際社会の批判が高まるなか、
1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO(北大西洋条約機構)が、セルビア人に
対する空爆を初めて行った。

1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が
支配していた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、
和平交渉に応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが
間に入って、クロアチア、セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、
11月には、クロアチア和平、ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、
ボスニアに関する和平合意を『ディトン合意』と言う。

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