ロシアでの革命には、多くの要因があった。 1905年には、民衆の間で不満が吹き出し、
ストライキ、暴動、反乱が起こった。 食糧不足、皇帝ニコライ二世の指導力の弱さ、
第一次世界大戦でのロシア軍の惨憺たる戦いぶりなどが更に不安を強め、戦争を
終結させられなかったことなどが、兵士や農民の怒りを招いた。

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【怪僧ラスプーチン】

ニコライ二世と皇后アレクサンドラに多大な影響力を持っていたのが、怪僧グリゴリー・
ラスプーチン。 彼がそれほど信頼されたのは、皇太子アレクセイの血友病を治療した
ためだった。 第一次世界大戦中、皇帝が前線に出ている間は、ラスプーチンがロシアを
支配した。 1916年、評判の悪かったラスプーチンは、皇帝の親族によって殺された。

1905年1月9日、若い僧であるガポンは、皇帝に請願するため、労働者と共に冬の宮殿に
向かって行進していた。 そこへ兵士が発泡し、女性や子供をも含むデモ参加者が
何百人も殺された。 この虐殺が、皇帝に対する国民の忠誠心を揺るがすこととなった。

1914年、ロシアは、フランスやイギリスと共に、第一次世界大戦に参戦した。 ロシア軍は、
最初のうちは、オーストリアとドイツに対して、勝利を収めたが、補強が十分ではなく、
やがて負け戦となって、多くの損害や脱走兵を出した。 そのあたりから、国民の熱狂は、
幻滅と厭戦気分に変わったのである。 

そして、1917年2月、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)で暴動が起こった(2月革命)。
これを切っ掛けに、ニコライ二世は退位し、臨時政府が後を引き継いだ。 1917年10月
には、ウラジミール・レーニンが指導するボリシェビキ(共産)党が権力を握った(10月革命)。
レーニンは、臨時政府を解体し、ウクライナを含む広大な領土を譲って、ドイツと講和を
結んだ。

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1917年の革命は、ペトログラードがほぼ無血のクーデターだったのに対し、モスクワでは
暴力的なものとなった。 戦闘的な労働者は、臨時政府に忠誠を尽くす強力な士官学校と
激しく戦った。 ボリシェビキが、このロシア第二の首都で勝利を収めたのは、クレムリン
周辺での激戦が10日間続いた後のことだった。

1917年3月、巡洋艦オーロラ号の水兵達が反乱を起こし、ボリシェビキに加わった。
10月25日、ペトログラードの中心部のネヴァ川に怒りを降ろしたオーロラ号が1発の
空砲を発射した。 これが、殆ど無防備の冬の宮殿で会議を開いていた臨時政府の
メンバーを襲撃する合図だった。

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【ウラジミール・レーニン】

ウラジミール・レーニンは、学生時代からの革命家で、1897年にシベリアに流刑になった。
『労働者は既成権力に対して立ち上がり、公正な社会を作らなければならない』と信じる
レーニンは、1900年に外国で逃亡者のロシア社会民主労働党の支配権を獲得した。
党は、ボリシェビキ(多数派)のレーニンのグループと、それに対立するメンシェビキ
(少数派)に分裂した。 ボリシェビキは、革命を指導した。

【レオン・トロツキー】
レオン・トロツキーは、精力的な革命家で、1905年の革命で投獄されて流刑となったが、
国外に逃亡して、1917年にボリシェビキに参加した。 トロツキーは、レーニンと共に、
10月革命の中心的な役割を担った。 外務人民委員や国防人事委員を努め、内戦の
時は、赤軍を組織して、これを指揮した。

ボリシェビキ革命後は、帝政ロシアの数々のシンボルが破壊された。 1918年には、
ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の巨大な像が倒された。 破壊を命じた
レーニンは、彼の兄がアレクサンドル暗殺を計画して処刑されたことを決して忘れては
いなかった。

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