ロシア帝国の歴史は、絶え間ない膨張の歴史であり、1600年から1900年までの
間に、ロシアは、毎日130キロ平方メートルの速度で領土を広げた計算となる。
東西に自然の障害物がないロシアは、いつの時代にも、繰り返しやって来る侵略に
対して、全くの無防備の状態であった。 力を持つようになってから、ロシアが
その国境を広げて行ったのは、ひとつには、攻撃を受けやすい自らの中核地帯を
守るためであった。

【ロシア拡大の歴史】
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イワン雷帝は、ボルガ河畔のカザンに侵攻して、タタール人を打ち破り、シベリア
への道を開いた。 1581年には、コサックの指導者エルマークが毛皮の豊富な
シベリア西部まで進んだ。 彼は、840人の兵士を推して先住部族を征服し、
ロシアの領土を大きく押し広げた。

ピョートル大帝は、海軍に関心を持ち、オランダとイギリスで造船の勉強をした後、
ロシア艦隊を創設した。 スウェーデンとの北方戦争(1700~21年)で、彼は
領土をバルト海にまで広げ、フィンランド南部のスウェーデン領や、現在
リトアニアとラトビアになっている地域を獲得した。 これによって得た
フィンランド南部の湿地帯に、大帝は新しい首都である、サンクト・ペテルブルグを
建設した。 彼はまた、太平洋のカムチャッカ半島と千島列島も獲得した。

18世紀終わりまでに、ロシアはシベリア、ウクライナ西部、リトアニア、
ポーランド、タタール、クリミアを自国に組み込んで行った。 1809年には、
フィンランドが加えられ、19世紀前半には、コーカサスの小国であった、グルジア、
アゼルバイジャンや、中央アジアの広大な地域がロシア帝国の一部となった。

1741年頃からは、ロシア人は、豊富な毛皮を求めて、海峡を超え、アラスカにまで
進出するようになった。 1789年には、ロシアで軍務に就いていたイギリス人の
ジョーゼフ・ビリングスが秘密の探検隊を率いて、アラスカ先住民とその沿岸部を
調査した。

【ナポレオンの時代のヨーロッパの国境線】
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1812年6月、ナポレオンは50万人の兵力を擁する軍隊を率いて、ロシアへと侵入し、
9月にはモスクワに近いボロディノへと達した。 激しい戦闘の結果、ロシア軍隊の
優秀な将軍、グルジア公ピョートル・バグラチオンをはじめ、多くの兵士が重症を
負った。

1812年9月にナポレオンは、一旦モスクワの占領に成功したが、自ら火を放つ作戦に
より、モスクワを守る作戦に出たロシア軍により、冬の補給物資までもを猛火に
よって焼き尽くされたため、10月には、冬将軍に押されて、撤退を余儀なくされた。
ナポレオン軍は、寒さと飢えに苦しめられ、90%以上の兵士が逃亡の途中で倒れて
行った。2年後、アレクサンドル1世率いるロシア軍は、誇らしげにパリに入城し、
以降、ロシアは、ヨーロッパで大きな役割を果たすこととなる。

クリミア戦争(1853~56年)では、ロシアは、イギリス、フランス、トルコと
戦った。 指揮がまずく、補給も十分ではなかったロシア軍は、黒海沿岸の
セバストーポリまでは1年にも渡る攻防の末に敗れたが、海軍はトルコ軍に勝利を
収めた。 平和条約によって、クリミアは維持したが、黒海でのロシアの勢力は
低下した。

ロシア南部やウクライナでは、逃亡した農奴達がコサックになり、辺境地に入植地を
作った。 最初のうちは、コサック達は、ロシアの権威に抵抗したが、19世紀には、
彼らの入植地は、豊かな農村となり、コサック達は、皇帝に忠誠心を示した。

コサックは、毛皮の長い帽子と羊の皮の外套という独特の制服を着て、刀と長い
やりを持って戦った。 コサックの男達は皆、騎馬兵部隊で軍務に就くことが
義務付けられ、忠誠心、勇敢さ、乗馬の巧みさで知られた。

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