最近、どうも石巻の被災が、全て『福島』にすりかえられている場面に多々遭遇
するのだが、私の実家がある場所は、石巻のすぐ隣の自治体である、美里町
なのだが、石巻の中心部からは、15キロ程度の場所で、石巻市との境界線からは、
3キロ程度しか離れていない。 しかも、母親が、石巻の出身であるため、私が
生まれたのは、実は、石巻。 いとこが全員石巻に住んでいるため、当然、
石巻弁も完全にネイティブ。
 
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出身地を聞かれると、かなり困るのだが、私の地元は、色々な地域と接点があり、
結局、ハッキリとどの地域に属するとは言い切れないない場所にあるため、その
時々に応じて、『美里の出身』と言う事もあれば、『大崎の出身』と言う事もあれば、
『石巻の出身』という事もあれば、『仙台の出身』と言う事もあれば、『宮城県の出身』
と言う事もある。

被災直後の石巻~女川~南三陸

私の母方の祖父は、石巻市内に昔あった、『広淵沼』の干拓に一生を捧げた人であった。
かなり広大な沼地だったため、大正10年(1921年)に始まった干拓が完了したのは、
昭和3年(1928年)だった。 今では、その土地は、広大な田んぼになっているのだが、
この沼の干拓の後に、その土地への入植者を募ったのが、今の石巻市広淵地区。

今でも石巻の地名として残っている『砂押』とは、その当時の名残。 尚、父方の
祖父は、樺太の開拓に行った人であった。

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関東に住んでいると、被災地に関する情報は、全く入って来ないため、関東の
人たちが、被災地に全く関心がないのは、仕方がないとして、全ての被災を
『福島』と言われるのは、ハッキリ言って、耐えられない。 海が重油で燃えたのも、
燃料が全く足りなかったため、遺体を火葬出来ずに、一旦土葬にしたのも、
石巻付近。 私のいとこは、全て石巻方面なのだが、今でも、怖くて、自分の
親類縁者、友人、知人に至るまで、自分の母親にすら、誰か死んだかを聞いては
いない。 沿岸部の山元や七ヶ浜にも友人がいるが、連絡の方法すら分からない
ため、未だに、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。

被災前の石巻の様子

40年前の石巻中心部が買い物客で溢れていた時代の街並みも覚えている。
30年前に『石巻バイパス』が完成して、石巻駅前の衰退が始まった。 その時に、
イトーヨーカードーが開業したのだが、そのヨーカドーは、今では、完全に建て
替えられて、同じヨーカドー系列の『ヨークベニマル』になった。 2000年頃に、
三陸自動車道が石巻まで開業して、市の中心部が、『イオン』周辺へと全て移された。
瀕死の状態で、衰退激しい、石巻駅前とは、打って変わり、こちらは、被災後に、
ますます勢力を増すばかり。

広淵沼の干拓の様子

石巻市内では、今でも、仙石線が、完全に運転を再開していないため、被災後は、
市内の交通量が、かなり増えた。 石巻駅から三陸道のインターチェンジまでは、
混まなければ、車で5分弱程度で到達出来たが、今では、15分ぐらい掛かる事も
しばしば。 津波災害で、かなりのものを失った石巻だが、これが、再生のチャンス
なのかも知れない。

個人的には、現在の蛇田駅か、その付近に、新しい石巻駅を建設して、町の中心部に、
石巻駅を置いた方が、実際の生活に合っていると思う。

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