横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    マカオフェリーターミナルから深圳蛇口までは、概ね45分に1本の間隔で高速船が
    出ていますが、中国へ向かう高速船であれば、安いのかと思いきや、香港とほぼ
    同じ3,800円程度。 この1時間の船の旅を高いと見るのか、安いと見るのかは、
    人それぞれですが、来年度中には香港と珠海・マカオを結ぶ橋が完成するため、
    今後この海はバスで渡ることになりそうです。 珠江の河口とは言え、実際は
    海なので、天候が悪い際には、非常に揺れます。 しかも、高速船なので、
    その揺れ方たるや、ジェットコースター並み。 こうして、真っ暗な中、WiFiも
    繋がらない中国へと旅立って行ったのであった。

    マカオを出航したのが午後8時で、深圳蛇口に到着したのが午後9時ちょうど。
    その後、中国の入国手続きを済ませて、どこにあるのかすら分からないシャトル
    バスを探し、6分ほどバスに揺られて蛇口港駅に到着したのが午後9時半。 そこから
    地下鉄に揺られること1時間半、宿泊地に到着したのは、午後11時15分でした。
    尚、深圳の中国語発音は『シェンジェン』。

    IMG_7118
    IMG_7120
    IMG_7122
    IMG_7123
    IMG_7124
    IMG_7125
    IMG_7127
    IMG_7128
    IMG_7129
    IMG_7130
    IMG_7131
    IMG_7132

    深圳は、想像以上に巨大な街で、一番西の端にある蛇口港駅から深圳北駅の更に
    北側にある宿泊地までは、地下鉄を乗り継いで、実に1時間半を要しました。
    深圳の地下鉄を端から端まで乗車すると、余裕で2時間以上は掛かるため、
    あらかじめどの辺りに目的地があるのか、知っておかないと、想像以上に時間が
    掛かります。

    深圳は、この30年間で爆発的に人口が増えたため、広東省の中では珍しく、
    北京語のみで話しています。 30年前はものの数万人程度の街が30年間で
    1,200万人の超巨大都市へと大変貌を遂げました。 但し、実際に住所を登録して
    いない人間が多数居るため、本当の人口は、更に多く、人口だけで見ると、
    東京をも完全に上回っています。 深圳は人口750万人の香港をも完全に圧倒して
    おり、物価もそこまで安くはないため、後5年以内には香港を完全に抜き去ると
    思います。

    写真で見ると完全に分かりますが、深圳の設備は全て新しく、街中が建設
    ラッシュの真っ只中であることが分かります。 地下鉄の路線数も、実は香港よりも
    遥かに多く、経済特区の中で最も成功しているのが、この深圳。 急激に発展を
    遂げた街は治安が悪いと言われるものの、深圳ではリュックサックを前に下げて
    いる人など全くおらず、人々が手に持っているスマホは、ほぼ全員がiPhoneで
    あることからも、非常に治安の良い街だということが分かります。

    IMG_7133
    IMG_7134
    IMG_7135
    IMG_7138
    IMG_7139
    IMG_7140
    IMG_7141
    IMG_7142
    IMG_7136
    IMG_7344
    IMG_7346
    IMG_7347

    深圳地下鉄4号線龍華駅。 深圳での滞在地は、この駅のすぐそば。 この日の
    到着時刻は午後11時過ぎであったのにも関わらず、市場の一部は営業をして
    いました。 朝の6時から夜中の12時頃まで営業をしているため、中国の勤勉な
    国民性を垣間見ました。 中国での買い物では、店員とは言葉を全く交わさない
    ため、外国人にはむしろ好都合w この市場で2日連続でトマトを買いました。

    深圳での滞在地は外に全く何も看板が出ておらず、しかも、宿の中には管理人が
    居ないという、とてつもないシステムw 長期滞在している若い学生らしき人が
    親切に対応してくれました。 このことは、Booking.comにも記載があったため、
    特に驚きはしませんでしたが、我ながら、夜の11時過ぎに良くこの場所を見つけたな
    と思いました。 駅に到着した後に、にこの建物の前側にあるお店で道を聞いた
    のですが、英語は全く通じなかったものの、その時に書いてもらった地図が非常に
    分かりやすかったため、一発で見つかりました。 尚、宿賃は2泊で50元(950円)w

    何を隠そう、中国にも実は女性専用者があります。 中国の車両は日本の狭軌の
    狭い車両とは異なり、広軌のため、車内も新幹線並に広いものの、日本とは人口
    比率が全く異なるため、車内は激混みします。 但し、中国では高齢化が
    そこまでは進んで居ないため、電車の中に高齢者が少ないのが特徴。

    地下鉄や鉄道他の公共交通機関に乗る際には、必ず手荷物検査を受けなければ
    ならず、飲み物を持っていると、大概ここで引っ掛かります。 尚、深圳市の
    面積は、東京23区よりも広いため、地下鉄の路線もかなりの数に上ります。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ベトナムの人口(7,180万人)の約20%は、都市部に住んでいる。 大都市は
    ホーチミン市、次いでハノイ、ハイフォンとなっている。 この次に重要なのは、
    ダナン、フエ、ニャチャンで、このこの3都市は全て中部の海外沿いにある。

    vietnam

    【ホーチミン】(旧サイゴン)
    サイゴンとその周辺のメコンデルタ地区には、400万人が住んでいる。 滅多に
    使われることがないこの街の正式名称『ホーチミン市』は、フランスから
    ベトナム独立を勝ち取った戦争の指導者である共産主義者を記念したもの。

    サイゴンは、6世紀にカンボジアのクメール族が築き、南進を続けていた
    ベトナム人が、サイゴン周辺に定住し始める17世紀まで、クメール帝国に属して
    いた。 次第に大きな港町になり、それがフランス人の目に留まって、19世紀に
    植民地にされてしまう。 フランス人は幅の広い大通りをつくり、住宅地には
    ヨーロッパ・スタイルの家屋を建て、今でもフランス風の様相を見せている。

    ベトナム戦争の間、アメリカ軍部隊、ジャーナリスト、一般外国人がサイゴン市内の
    ホテル、ナイトクラブ、喫茶店にあふれ、サイゴンの経済は戦時活動に密着して
    いた。 戦争が終わると、サイゴンの経済は低下し、多くの企業は潰れ、あるいは、
    政府に接収された。 だが最近は経済が回復して、ナイトクラブも再開し、新しい
    ホテルや事業所がたくさん建設されている。 道筋に並ぶ露店商人たちも景気が
    良くなっており、シクロ(三輪自動車のタクシー)が街中にあふれている。

    ベトナム南部の金融、商業の中心地であるサイゴンは、ゆっくりだが戦争の痛手から
    立ち直っている。 市内の工場では、食品を加工し、家具やカーペットを生産して
    いる。 家族経営の小企業が栄え、一時は売り物がなかった露店の食品市場は、
    果物や野菜で一杯になっている。

    【ハノイ】
    ベトナム第二の都市ハノイは、11区から成る大ハノイ(人口約300万人)で、
    そのうち4区が首都ハノイ(人口92.5万人)となっている。 北部の工業の
    中心地で、自転車、たばこ、農耕機械、木製品を生産している。 最近の経済
    改革で、ハノイに対する外国の投資を奨励し、多くの私企業が開業した。

    トンキン湾から紅河を72キロ遡った地点にあるハノイは、1010年に李王朝(最初の
    ベトナム人統治者一族)の王都となった。 19世紀にベトナム王国が首都をフエに
    移すまで、ハノイは文化と教育の中心だった。

    ハノイの繁華街の真ん中にホアン・キエム湖がある。 その周りの公園では、
    市民たちは祭りやバイクレース、ハトレースが開催されている。 湖の南側は、
    近代的な商業地区で、フランス植民地時代に建てられたホテルや大きなストアが
    並んでいる。 また、北側はハノイの旧市街地区で、古い寺や故ホーチミンの
    霊廟がある。

    【ハイフォン】
    ハノイから東へ100キロ余り、トンキン湾に面しているのが、ハノイの外港であり、
    ベトナム北部の最も重要な港であるハイフォン(人口150万人)で、ハイフォン港で
    陸上げされた荷は、鉄道でハノイに運ばれる。 港内では無数の小舟が荷船や
    タッグボート、貨物船ともみ合うようにして走っている。 大型船が入港、停泊
    出来るように、港湾の改良、拡大の計画が進められている。

    19世紀末にフランス人が開港したハイフォンは、第二次世界大戦中に日本軍に占領
    された。 ベトナム戦争中、北ベトナムが輸入する軍事物資の大半は、ハイフォン港
    で積み荷を降ろしていた。 その結果、港はアメリカ軍機の猛烈な爆撃の標的と
    なった。 戦争で受けた被害の修復工事が、まだ市内の各地で行われている。

    ハイフォンの主な産業は、造船、魚介類の缶詰、ガラス製品、純毛カーペットで
    ある。 リン酸塩で肥料を生産している工場もある。 近くにある水力発電所から、
    ハイフォン市内の工場に送る電気の変電所もある。 港湾都市の伝統から、海軍の
    学校が2校ある。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    珠海(ジュハイ)は、中国に5つしかない経済特区のひとつで、香港国際空港からも
    直接珠海行きのフェリーが出ているものの、フェリーターミナルは、中心街からは
    5キロ程度離れており、逆に澳門に隣接した地域であるため、香港から澳門を
    経由して珠海へと入りました。

    珠海駅は、澳門との越境地帯に直結しており、ここから広州方面等への高速鉄道が
    走っています。 珠海は至る所で建設ラッシュの真っ只中で、建物ほぼ全てが新しい
    ものばかり。 香港と澳門を結ぶ橋が来年度中には完成するため、その橋が完成した
    暁には、更なる経済発展が見込まれます。

    珠江デルタ地帯の対岸にある同じ経済特区の深圳は人口1,200万人の巨大都市
    ですが、珠海は、160万人程度の小振りな地方都市。 深圳よりも珠海の方が
    若干物価は安いものの、日本の物価と比較すると余り大差がありません。

    IMG_7071
    IMG_7094
    IMG_7095
    IMG_7075
    IMG_7077
    IMG_7080
    IMG_7083
    IMG_7084
    IMG_7085
    IMG_7086
    IMG_7087IMG_7061

    澳門との越境地帯に隣接する珠海駅付近が珠海の古くからの中心街になります。
    駅前にある大きな広場の地下には、巨大なショッピングモールがあり、建設されて
    からはさほど時間が経過していないため、非常に真新しい感じがしました。 かなり
    巨大なモールであるため、ここを一通り見て廻るだけでも半日は潰せます。

    中国国内には警察官が至る所に立っており、一瞬物々しい雰囲気なのかと思って
    しまいますが、逆に警官が多いため、街の中はすこぶる安全。 澳門から中国側に
    入ると、一気に英語が通じなくなりますが、中国人は英語が分からなくとも、
    一生懸命理解してくれようとするため、日本人もこの点は見習うべきです。 尚、
    広東省には、中国に5つある経済特区のうち、深圳、珠海、汕頭の3つがあり、残りの
    2つは福建所の厦門と海南省自体が経済特区となっています。 特別行政区の香港と
    澳門も広東省に隣接しています。

    珠海は街を歩いている人達の顔にも余裕があり、そこからも中国の経済に余裕が
    あることがうかがい知ることが出来ます。 南国のため、気候も温暖で、ヤシの木が
    あったりと、澳門からちょっと足を延ばすだけで一気に雰囲気が変わるため、
    観光には、それぞれ最低でも半日は欲しいところ。

    IMG_7073
    IMG_7072
    IMG_7092

    IMG_7088
    IMG_7089
    IMG_7090
    IMG_7091
    IMG_7093
    IMG_7096
    IMG_7098
    IMG_7099
    IMG_7100

    地下の巨大ショッピングモールで本場のラーメンと餃子を注文しましたが、それぞれ
    25元(約475円)なので、物価は日本と殆んど同程度と考えて間違いなし。 澳門
    から珠海に入ると、物価が非常に安く感じるものの、珠海での物価を日本円に
    換算すると、東京とさほど物価は変わりません。 食べ物は、むしろ、中国よりも
    日本の方が安いと感じるぐらいです。 尚、中国のラーメンは湯麺と言って、
    日本のこってり系とは全く異なり、あっさりスープのため、うどんに近いと感じ。
    中国には、焼き餃子も殆んどなく、水餃子がメインです。

    中国の中でも特別な特権を与えられている珠海は、建物も新しく、若者が多いため、
    未来へのエネルギーに溢れていました。 日本では未だ嫌韓論や嫌中論を振り
    かざしている人間が多数存在しているものの、そのような人間は、このような中国の
    目覚しい経済発展のことなど露程も知らず、己の無知さ加減を周囲へ言いふらして
    いるのと同じ。 相手に対して失礼な態度を取る人間に対しては、相手からも同じ
    ことを返されるという基本的なことを知らないため、同族嫌悪と同じで、堂々巡りの
    繰り返し。 2時間しかなかった短い珠海の滞在はこれでおしまい。 珠海からは、
    澳門を経由して深圳へとフェリーで渡ります。

    中国での出国手続きを終え、越境地帯を越えて、澳門へと入るためには、それぞれ
    15分以上掛かるため、ほんの数百メートルの移動だけでも30分以上は余裕で掛かり
    ます。 同じ中国と言えども、政治体制が異なるため、まだまだ国境は撤廃出来ない
    模様。 尚、この国境を越えると、中国語(簡体字)&英語の珠海から、広東語
    (繁体字)&ポルトガル語の澳門となります。 喋っている言語も北京語→
    広東語へと切り替わります。 中国は、この多様性が面白いと思います。

    IMG_7102
    IMG_7103
    IMG_7106
    IMG_7108
    IMG_7114
    IMG_7115
    IMG_7116
    IMG_7117
    IMG_7118
    IMG_7120
    IMG_7124
    IMG_7125

    珠海から直接深圳へと渡らなかったのは、澳門の無料シャトルバスで移動した方が
    無料だからで、国境の關閘から澳門フェリーターミナルへはシャトルバスは出て
    いないものの、澳門半島の南側の埋立地にあるホテルギャラクシーまでは、關閘から
    直接行くことが出来るため、一旦、30分掛けてホテルギャラクシーまで南下の後、
    再度シャトルバスを乗り換えて、20分掛けて北上し、澳門フェリーターミナルへと
    向かいました。 よって、澳門の移動は全て無料♪

    本当は、ザ ベネチアン マカオ リゾート ホテルに行きたかったのですが、何故か
    バスが全く来なかったため、その手前にあるホテルギャラクシーにしました。 尚、
    どちらも巨大カジノを併設しており、澳門のカジノ産業は、本場ラスベガスの約9倍
    となっています。 日本でもカジノを反対している人間がおりますが、依存性の
    高い賭博は、何もカジノばかりではなく、パチンコも同じような賭博であるため、
    カジノを反対するのであれば、パチンコやゲームセンターも反対すべきだと思い
    ますが、何も知らない人間には馬の耳に念仏。

    澳門のホテルは、観光客向けにそれぞれのホテルに独自の超豪華なアトラクションが
    あるため、ホテル巡りが澳門の名物のひとつ。 ホテル巡りだけでも丸1日は必要
    です。 今回は時間がなかったため、ホテルは見ずに、澳門フェリーターミナルへと
    戻り、深圳へと渡ります。 本当は澳門でもっと観光をしたかったものの、午後
    11時を過ぎると、中国の地下鉄は終了してしまうため、早めに深圳蛇口港へと渡る
    ことにしました。 香港⇔澳門間の高速船には、無料のWiFiが付いていましたが、
    中国の深圳へ渡る高速船には何も付いておらず、更に、中国内ではFacebook他の
    SNSには全く繋がらないため、澳門フェリーターミナルを最後に、世界からは
    隔離されてしまいました。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    香港エクスプレスの特別セールで、往復航空券を購入すると、往路が10円になる
    というキャンペーンを開催していたため、9月初めに行って来たばかりの香港へ
    再度行くことに。 香港国際空港は、出国税やら空港建設費やら、諸々の諸税金で
    7,000円程度の税金を取られるため、復路の航空運賃は13,800円だったものの、
    往復合計の金額は、20,380円の格安料金♪

    計画当初は、香港で乗り継いでベトナムに行こうと思ったものの、香港空港の
    諸税が余りにも高かったため断念。 前回行こうと思いつつ、行けなかった
    珠海は絶対に行きたいと思ったため、香港には入国せずに、そのまま澳門
    (広東語ではオウムン)へと直接渡り、そのまま中国経済特区である珠海へと
    入国しました。

    澳門と珠海は、同じ中国ですが、政治体制が異なるため、返還後も国境と通貨が
    そのまま残されており、地球の歩き方には、『中国側の一般庶民には、澳門は
    越えるに越えられない壁』と書かれていたものの、国境自体が日本の通勤
    ラッシュ時並に激混みしており、皆軽々と国境を越えていた。

    澳門では入国カードの記入の手続きが今回から廃止されていたのだが、中国への
    入国には出入国カードの記入が必須となっており、国境によって、出国時の
    カードを渡されないことが多いため、出国時には、出国カードだけ新たに記入する
    必要性があります。

    【香港国際空港】
    IMG_7010
    IMG_7011
    IMG_7015
    IMG_7021
    IMG_7022
    IMG_7023
    IMG_7024
    IMG_7025
    IMG_7026
    IMG_7028
    IMG_7031
    IMG_7034
    IMG_7036
    IMG_7041
    IMG_7042

    香港国際空港では、中国や澳門へ直接渡る場合、香港での入国手続きをせずに、
    そのまま大陸側へと渡ることが出来ます。 特に、香港出国時にこのトランジット
    制度を利用すると、20香港ドルが返還されるため、帰国時こそこの制度を是非とも
    利用したかったのだが、大陸側から渡って来るフェリーの料金は、いずれも片道で
    3,800円程度するため、結局、3,000円程度を返還されても、最終的には余り変わら
    ないどころか、逆に香港を全く観光出来なくなるため、最終日は深圳に午前中まで
    滞在していたものの、深圳の蛇口からフェリーで香港空港へ渡ろうと思えば出来た
    とろをあえて利用しませんでした。 次回は、是非とも帰国時にこのフェリーを
    使用したいと思いました。

    香港国際空港から澳門までは、高速フェリーで70分程度。 九龍から澳門は60分
    程度で行けるのに、更に近い香港空港からの方がより時間が掛かるのはおかしいと
    思っていたところ、途中でかなり減速して一旦停止してバックをしたりしていた
    ため、周辺の海域がかなり混んでいるのか?と思いました。

    現在、この珠江デルタでは、海を渡る橋の建設が進められており、来年度中には
    完成するため、その際には、このフェリーは廃止されてしまうのか? 船内には
    WiFi電波が複数飛んでおり、連続30分まで無料で利用することが出来ます。

    尚、香港から澳門に渡ると、同じ広東語でありながら、併記言語が英語から
    ポルトガル語のみに代ります。 澳門では英語の表記は殆んどなく、全て広東語と
    ポルトガル語の表記ばかりとなるものの、実際は、ポルトガル語は殆んど通じず、
    英語の方が通じます。

    香港国際空港はランタオ島にあるため、澳門側から見ると、九龍半島よりも
    手前側にあります。 この建設中の橋が完成すると、香港から澳門までは、車で
    30分程度で行けるようになるため、次回はバスでこの海を渡るのかと思うと、
    わくわくします♪

    完成途中の『海ほたる』らしきものが高速船からも見えました。 この部分から
    海底に入り、トンネルとなる模様。 澳門までは片道1時間で行けると言えど、
    片道で3,800円は安くはないため、香港だけ見て澳門には行かない観光客も多い
    ものの、香港と澳門は雰囲気が全く異なるため、澳門は是非とも訪れた方が良い
    場所です。

    香港は旧イギリス領、澳門は旧ポルトガル領なので、澳門は完全に南欧の雰囲気が
    漂っており、街全体が世界遺産にも登録されています。 全ての世界遺産は半径
    3キロ程度以内に固まっているため、頑張れば全ての世界遺産を全て歩いて廻る
    ことも可能です。

    【澳門フェリーターミナルから關閘】
    IMG_7045
    IMG_7047
    IMG_7051
    IMG_7052
    IMG_7053
    IMG_7056
    IMG_7057
    IMG_7059
    IMG_7061
    IMG_7062
    IMG_7064
    IMG_7066
    IMG_7067
    IMG_7068
    IMG_7070

    澳門国際フェリーターミナルから、バスに乗り、中国国境へと向かいます。
    バスの料金は、香港ドルでも澳門パタカでも3.20。 澳門では100%香港ドルだけ
    でも支払いが出来るため、これまで1度も澳門パタカに換金をしたことがなかった
    ものの、バスに乗るため、1,000円だけ香港ドルに両替し、更にバスに乗りたい
    ので、10香港ドルを細かいので下さいと言ったところ、何故かそれだけ10パタカ
    渡されました。 どうせ香港で残りを使うので、その部分も香港ドルで欲し
    かったのだが、香港同様、おつりが一切出ないという適当なシステムのため、
    パタカ自体も適当になくなりました。

    澳門では何が何でも両替はしたくなかったため、当初、観光案内所で澳門の
    国境である關閘まで行けるホテルのシャトルバスがないかと2回も訊ねたところ、
    北方面へのシャトルバスは存在しないとのことだったため、諦めてバスに乗る
    ことにしたものの、後から知ったルートでは、一旦、澳門半島から南側にある
    ホテルギャラクシーを経由すれば、無料で国境まで行けることが判明したため、
    帰りはそのルートで帰りました。 次回からは、このルートを使います♪ 尚、
    澳門のホテル送迎バスは、無料で旅行者も利用することが出来、澳門の主な
    観光地を概ね網羅出来るため、利用価値大です。 間もなく、澳門ではモノレールが
    完成しますが、無料のシャトルバスを使った方が断然お得♪

    澳門と中国珠海との国境『關閘』は、ポルトガル語では『Portas de Cerco』と
    言います。 現在の越境施設の前にある黄色い門が1990年代までの越境のための
    手続きを行っていた場所で、現在では、記念碑的なものとしてそのままこの場所に
    残されています。

    澳門は中国への返還直前まで、中国語とポルトガル語以外での表記を禁止していた
    ため、英語での道路表記は全くありません。 かと言って、ポルトガル語は全く
    通じないという、矛盾をはらんでいるため、道路標識はポルトガル語で読み、
    その他の部分は英語で会話することとなります。

    北京語は問題なく通じるようで、澳門で最も便利な外国語は北京語ということに
    なります。 広東語と北京語は、聞いた感じからして全く違う言語であるため、
    北京語話者には広東語は全く通じません。 澳門フェリーターミナルから關閘
    までは、バスで20分程度。

    澳門と珠海の越境地帯は、ニュートラルゾーンのため、本当は写真撮影禁止w
    よって、澳門側でも見つかると画像を削除しろと言われます。 歩いて3分程度の
    越境地帯には、免税店が多数あります。 越境地帯は川のような幅の海です。
    実際、珠海側も、経済特区であるため、澳門との経済格差は縮まりつつあり、
    そう遠くないうちにこの越境地帯も撤去されると思います。 澳門も日本よりも
    物価が高いため、 安い商品を求めて、日夜澳門人たちがこの越境地帯を越えて
    行きます。 ここからが中国経済特区の本当の旅の始まり♪ 澳門は香港と並び、
    中国の特別行政区となっています。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カール大帝によって創始された王朝が途絶えた後、919年に、フランケンと
    サクソンの諸侯は、サクソンのハンリッヒ1世をドイツの国王に選出した。
    ハインリッヒ1世はドイツの5大諸侯に強力な同盟を結ばせ、その息子の
    オットー1世は王国を東西に拡大して行った。

    優れた戦略家であったオットー1世は、955年、遊牧民マジャール人の侵入を
    防ぎ、965年には、同じく領地の侵略に頭を痛めていた教皇の要請に応じて、
    イタリアに進軍した。 この功労に対し、オットー1世は神聖ローマ帝国の
    帝冠を受け、以後何世紀にも渡りドイツ王国は、同時に神聖ローマ皇帝を
    兼ねるようになる。

    imghgf0

    神聖ローマ帝国の皇位を継承して行ったのは、オットー1世の一族であったが、
    帝国自体は、大小様々な諸侯が各領地を支配していた。 これらの諸侯は
    独自の宮廷、法律、軍隊、そして国王を選出する権限を持っていた。 中央
    集権的な権力のないドイツ国王は、都市から都市へと渡り歩き、領地の小作料に
    よって宮廷の費用をまかなう他なかった。

    1100年代には、ドイツはフリードリヒ1世の下に、短期間とは言え統一される。
    バルバロッサのあだ名で有名なフリードリヒ1世(赤ひげ王)は強く、大胆な
    指導者で、1152年には国王、3年後には神聖ローマ皇帝になった。 軍事力と
    交渉によって、フリードリヒ1世の支配力は、現在のポーランドやハンガリー
    にまで拡大し、その後、野心家であった息子のハインリヒ6世が北イタリアも
    領地に組み込んだ。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    2017年10月22日の衆議院議員選挙で、自民党が大幅に議席を増やしたが、日本の
    政治の問題点は、与党の自民党ばかりが一強となっているところで、他の与党に
    投票したくなうりょうな党がひとつもないところにある。

    自民党は、これまで長年日本の政治を担って来たが、自己責任による弱者排除と
    大手企業ばかりを優遇するアベノミクスにより、社会の格差の拡大ばかりが
    広がっているため、貧富の差が広がり続けた結果、日本は既に安心して暮らせる
    国ではなくなった。

    0e60688

    現在、安倍内閣を支持しているのは、比較的豊かな生活をしている、いわゆる、
    『勝ち組』と呼ばれている人達で、己の資産を守るために、保守に走っているが、
    そのような目先の付け焼刃的な政策ばかりでは、将来に不安ばかりが残る。
    未来に不安を残した状態で、己だけのうのうと暮らせれば、それで良いと言うのか?

    自民党と経団連の癒着もかなり問題があり、経団連では、見るに見かねて、自民党に
    対する政治献金を公然と言い出す始末。 まともに税金を支払っていない企業に
    限って、自民党に大口に献金し、その資金がまたその企業に戻るという悪循環を
    生み出している。

    2013122415

    元々、自民党が目指しているのは、アメリカ式の強欲資本主義で、まともな国では
    医療費や大学の費用が無料であるため、本来、日本もそれを目指すべきなのだが、
    アメリカ一辺倒の日本の政治家には、そのような世界の常識が全く理解出来て
    いない。 これは、留学先として、アメリカばかりが選ばれているためで、日本の
    学生は、アメリカではなく、ドイツ、フランス、スウェーデン等のまともな国から
    色々な事を学ぶべきである。

    本来、社会は弱者を守るべきであり、富裕層はそのために、それなりの税金を納める
    べきであるのだが、現在の日本では、その機能が全く働いてはおらず、日本は
    世界でも有数の自殺大国となっている。

    金銭的に豊かになったのであれば、それを社会に還元すべきところだが、それを
    誤魔化して大手を振っている人間が多過ぎるため、このような国に成り果てている
    のではないか?

    戦後、日本は物質的な豊かさは手に入れたが、心の豊かさまでは手に入れられ
    なかったようだ。 戦後同じような道を辿ったドイツとの差は開くばかりで、
    日本はアジアの中でも、中国や韓国にすら劣った国になりつつある。 それを
    誤魔化すために、日本各地では、極右化が進んでいるが、ウソやまやかしの情報を
    鵜呑みにしてばかりいないで、自分から積極的に色々な情報を得て行かなければ、
    悪徳政治家の思う壷。

    本来、民主主義とは、国民が主体となり国を動かし、政治家を監視し続けなければ
    ならないのだが、日本ではそのような考え方が全く浸透してはおらず、逆に、政治を
    軽視、あるいは、タブー視している人間が多過ぎるため、逆に政治家が国を支配
    している独裁国家とも言う事が出来る。 政治に対して無関心な人間は、無責任な
    人間が多い。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アモイは福建省の南東部、九龍江の河口に位置する港湾都市で、対岸は台湾。
    中心となるのは、東西13キロ、南北14キロのアモイ島。 『アモイ』とは、
    廈門を地元の言葉の閩南語(福建省南部で話されている言語)読みしたもので、
    国際的にも通用している。

    アモイには白サギが多く生息していたことから、鷺島、鷺門という名でも呼ばれた。
    そのため現在でも特産品や地名に『鷺』の字が使われているものが多い。

    XMN80534

    史料によれば、アモイは唐の天宝年間(8世紀半ば)に福安と漳省から陳氏が島に
    移住した時から始まったとされている。 宋代に行政に組み込まれ、明の洪武年間
    (14世紀後期)に城が築かれて『祖国大廈之門』(祖国の大きな家の門)と呼ばれた
    ため、『廈門』の名が付いた。 明末清初には、鄭成功がアモイや台湾を拠点に
    清への抵抗運動を続けた。

    また、アモイ港は水深が12メートル以上あり、かつ周囲の陸地や島が防波堤の
    役割を果たしている天然の良港のため、明の正徳年間(16世紀前期)以降は、
    中国有数の茶葉輸出港として繁栄した。 アヘン戦争の講和条約である南京条約
    (1842年)により開港され、コロンス島に洋館が建てられた。

    アモイは1980年に経済特区に指定され、1984年にコロンス島を含むアモイ全島が
    経済特区となった。 華僑資本を中心とした外資が多数進出し、日本企業も多い。

    繁華街は島南部の中山路と思明南路の中山路寄りの部分。 中山路は2階以上を
    歩道の上まで延ばす、華南地区特有の建築様式を持つ。

    アモイ最大の観光スポットは、古い洋館が建ち並ぶコロンス島で、風情ある
    街並みが美しく、国内でも有名な観光地となっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1500年代の初め、ヨーロッパの探検家たちははアジアの豊かな香料マーケットへの
    近道を探していた。 ポルトガルで生まれで、スペインの旗の下に航海を
    続けていた探検家、フェルディナンド・マゼランが東南アジアの水域に達した。
    一行は現在のマレーシアとインドネシアまで来た。

    【マゼラン上陸記念碑】
    5d953eb3

    1521年、第2回の遠征でマゼラン隊は、レイテ島の南の小さな島、ホモンホンに
    達した。 近くのリマサワやセブに旅をし、マゼランは島民たちと友好的に
    交流した。 地元民はヨーロッパ人を歓迎し、キリスト教を受け入れることに
    同意した。

    しかし、マゼランの会った人々が全て友好的だった訳ではない。 マクタン島の
    支配者のラプラプはヨーロッパの様式を受け入れたり、ヨーロッパ人に支配される
    ことを拒んだ。 マゼランはラプラプたちを征服しようとしたが、ラプラプの兵は
    ヨーロッパ簡単に破ってしまった。 1521年4月27日、マゼランは戦闘で殺され、
    生存者はフィリピンを離れ、西へ向かって世界周航の旅を続けた。

    【ラプラプの像】
    32b117f0

    この敗北にも関わらず、スペイン人は太平洋の探検を続けた。 1545年2月には、
    ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがミンダナオ島に上陸し、後援者フィリップ王子
    (後の国王フィリップ2世)の名前をとって、島々をフィリピナスと名付けた。
    ビリャロボスは島々に永久的な居留地をつくることでスペインの権利強化を望んだ
    のである。

    食糧不足や地元民の敵意などから、彼の計画は失敗した。 それにも関わらず、
    スペイン人は最初の居留地をセブ島のサン・ミゲル(後のセブ市)に設立した。
    1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが更に発展させ、兵士400人と数人の
    宣教師が住み着いた。

    【マゼランクロス】
    cdec0766

    【初期のスペイン支配】
    住民たちは、ヨーロッパ人の支配に強い怒りを抱いたが、レガスピと軍隊は、
    次第に島民たちをスペインの勢力下に置いて行った。 その後もスペインからは
    兵士や宣教師たちが、相次いでやって来た。

    宣教師の勧めで、島民たちの多くがキリスト教徒となった。 その中でイスラム
    教徒は、兵士たちには最も征服するのが難しく、宣教師たちには改宗させるのが
    難しいグループだった。 中でもミンダナオ島のイスラム教徒たちは、最後まで
    スペインに屈しなかった。

    1571年、レガスピと軍隊はマニラを占領した。 ルソン島のイスラム勢力は
    少人数ながらスペインと戦ったが、結局敗れた。 ルソン島の山岳民族である
    イゴロット族もスペインの勢力拡大に抵抗し、ヨーロッパ人を悩ませ続けた。

    抵抗する島民の大半を抑えると、植民者たちは地域一帯を自分たちの主権拡大に
    役立てた。 マニラを南アフリカから太平洋を通って銀を運ぶ船舶のための
    重要な港にした。 中国の商人は、そこで磁器や絹、織物をスペイン人の
    持っている金と交換した。 これら初期の植民者は、とうもろこしを紹介し、
    米作地帯で灌漑システムを改善した以外には、フィリピン経済の発展に大した
    ことをしなかった。

    【セントニーニョ教会】

    600719b1

    【スペインによる占領】
    スペインはフィリピンの支配にあたって、住民たちが用いていた機構を拡大する
    ことにした。 政府の基本の単位は村、もしくは、バランガイで、村には住民たちの
    非公式の集まりで選ばれたダトゥー(支配者)が居た。

    ローマ・カトリックの僧侶たちは、宣教師として、また、植民地の行政の代表として
    バランガイに住んだ。 住み着くことで、彼らはダトゥーの選出に強い影響力を
    与えることが出来た。

    このようなスペイン人宣教師によるフィリピンの間接支配が、成功しなかった地域も
    ある。 ルソン島北部の支配者、ディエゴ・シランは1762年、スペインに反逆し、
    ビガンに自らの政府をつくった。 南の島々のイスラム教徒たちは、スペインの
    軍の前進基地を襲い、独立を達成した。

    18世紀後半、スペインは多くの反乱グループに対し、再び武力を使った。
    ヨーロッパ人はまた農業改革を進めた。 行政官は農民たちに、マニアアサ
    (ロープを作る)や、茶、タバコなど輸出作物の栽培を進めた。 植民地政府は、
    タバコの専売権を確立し、それは当局者たちに巨額の富をもたらした。

    1800年代の初め、スペインはイギリスやアメリカ合衆国、フランス、その他の
    国々の商人たちとの貿易のため、フィリピンを開いた。 サトウキビ、マニラアサ、
    タバコが主な輸出品となって、フィリピンの経済発展に役立った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    486年には、フランク族の王クローヴィスがそれまでガリアを支配していた
    ローマ人を破り、北ヨーロッパにフランク王国を建設した。 クローヴィスは、
    キリスト教に改宗したことでも知られている。 キリスト教は中東から
    ヨーロッパに伝えられた宗教であるが、フランク族は宗教上、西欧キリスト
    教会の主座を占めるローマ教皇に服従していたのである。

    クローヴィスの死後、王国は息子たちの間で分割され、勢力は弱まった。
    そこでゲルマン民族の中には、フランク族からの独立を主張する者が多く表れ、
    例えば、北ドイツに勢力のあったサクソン族は、キリスト教に激しく反発した。

    768年にフランク族の支配者となったカール大帝は、サクソン族を破り、中央
    および西ヨーロッパに領地を広げた。 こうして、800年にはローマ教皇レオ3世
    からローマ教皇の冠を授けられ、西ローマ帝国の復活を果たしたが、これは
    かつての西ローマ帝国と性格の異なるものであった。 数年の間にカール大帝は
    ゲルマン民族を統一し、西ヨーロッパにおける戦争や侵略に終止符を打った。

    また、首都アーヘンにて中央集権政治を確立、学校や修道院の建設を命じ、
    教育や学問を奨励した。 こうして進歩的な支配者であったカール大帝の
    監修の下、初めてドイツ語の辞書が編纂された。

    084010

    カール大帝の死後、後継者たちは領地の支配をめぐって争い、843年には、
    孫3人が帝国を三分割することを取り決めたヴェルダン条約を締結した。
    この条約によって、ルートヴィッヒ2世はライン川東岸を含む東フランクを、
    ロタールはライン川西岸の中部フランクを、カール2世(禿頭王)は西フランク
    (後のフランス王国)を、それぞれ獲得することになった。

    9世紀になると、東方からの侵略者が東フランク王国に襲撃を企てるようになった。
    ドイツの諸侯は、王国を守るのに手柄があるごとに、王国から称号や領地を
    授けられ、これらの諸侯はやがて、ドイツ内に独立した公国をつくって行った。
    その中でも最も強大なサクソン、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、
    ロートリンゲンなどがあった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1980年に再び政権の座に就いたトルドーは、カナダの統一を一層強固なものに
    するよう努力した。 また、イギリスとの絆を弱めることを目指し、『1982年
    憲法』を公布して、その目標を達成した。 これにより、憲法の改正はイギリスが
    関わることなく、カナダ人によって行われるようになった。

    1980年代になると、カナダの経済は悪化し、失業率は1930年代の大恐慌以来、
    最高値に達した。 1984年にトルドーは辞職し、次の総選挙では進歩保守党が
    勝利をおさめた。 ケベック出身の新首相ブライアン・マルルーニーは、カナダ
    経済の再建に乗り出した。

    Mulroney

    カナダ議会では、西部の石油の利権と東部の漁業権をめぐって、長年の間、意見が
    対立していたが、マルルーニーはそれを解決することにより、カナダが抱える
    経済問題をいくつか処理した。 しかし、彼が最も意欲を燃やしたのは、アメリカ・
    カナダ自由貿易協定(FTA)だった。 1988年の初めにアメリカ議会を通過した
    同条約の条項に従って、両国間の現行の関税はなくなることになっていた。
    カナダ議会はこの協定の批准をめぐって、激しく意見を戦わせたが、結論は
    出なかった。

    内閣内部の不名誉な事件とアメリカ・カナダ自由貿易協定の反対に直面した
    マルルーニーは1988年10月、議会を解散し、総選挙を行った。 野党はアメリカ・
    カナダ自由貿易協定に強く反対した。 この協定はカナダの独立を制限し、広範囲に
    渡る社会福祉計画の実施を妨げると主張したのである。 マルルーニーは、
    この協定が結ばれれば、貿易が推進され、従ってカナダ人の雇用の機会が増える
    という点を強調した。 11月の総選挙の結果、進歩保守党が引き続き政権を握った。
    この勝利により、国民がアメリカ・カナダ自由貿易協定を支持していたことが
    確認され、1988年12月、カナダ議会でこの協定が成立した。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    インド洋と太平洋の間にあるためフィリピンは、海上交易を行う人々にとって
    便利な寄港地だった。

    フィリピンの南西、スマトラ島にあったスリ・ビジャヤ王国からも沢山の商人が
    やって来て、紀元前600年代までには、スリ・ビジャヤは太平洋の主要な交易勢力と
    なった。

    スリ・ビジャヤはフィリピンを含め、東南アジア全域に渡る海上ルートを支配した。
    スリ・ビジャヤによるフィリピンおよび東南アジア一帯の交易支配は、およそ
    500年に渡って続いた。 ビサヤ諸島というのは、彼らの名前から取ったものだ。
    彼らは、フィリピン諸島の宗教にも影響を与えた。

    スリ・ビジャヤ人は、紀元前6世紀にインドでゴータマ・ブッダにより始められた
    仏教をフィリピンに紹介した。 ヒンズー教を奉じるマジャパヒト王国は、
    1200年代の後半にジャワ島に出現した。 間もなく、フィリピンにおける海上
    ルートの支配者として、スリ・ビジャヤ人にとって代わった。 マジャパヒトの
    指導者たちは、支配地域にヒンズー教を取り入れようとはしなかったが、ヒンズー
    文化の多くの要素がフィリピンにも入った。

    例えば、フィリピン人の正装であるバロン(独自のシャツ)は南インド出身の
    ヒンズー人が身に着けている上着を改めたものだ。 フィリピン人はまた、
    ヒンズー教の言語であるサンスクリットから多くの言語を取り入れている。

    0ng7

    【アラブと中国商人たち】
    スリ・ビジャヤとマジャパヒトの影響が強かった時代、アラブ人と中国商人たちも
    フィリピンにやって来た。 14世紀までには、アラブ人学者たちがフィリピン諸島の
    南部に上陸し、イスラム教を広めた。

    イスラム教は7世紀にアラビアで生まれた。 15世紀の中頃までには南の島々、
    特にミンダナオ島で多くの人々がイスラム教徒となった。 インド、マラッカ、
    ボルネオなどからもイスラム教徒の商人がやって来て、イスラム教を広めるのを
    手伝った。

    一方、中国人商人たちは、北からフィリピンにやって来た。 その多くはルソン島に
    上陸すると、絹や磁器をフィリピンの木材や金と交換した。 明の時代(1368年~
    1644年)、商人たちはルソン島に居住地をつくった。 例えば、リンガエン港は、
    その名を当時の有力な商人、リン・ガイエンから取ったものだ。

    15世紀の始めには、中国人指導者た北の島々のいくつかを治める程、中国の影響は
    強大となった。 中国人は南から来たイスラム教徒と衝突し、結果的には、多くの
    居住地を失うことにもなった。 1500年代の初めまでには、イスラム教徒たちは、
    勢力をルソン島のほぼ全域に広めた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

    72dab1fab

    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

    provincecg094

    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ドイツに人が定住するようになったのは、今から約65万年前のことであると
    考えられている。 だが、これら初期の人々については、殆んど何も分かって
    いない。 約10万年前になると、狩猟生活をしていたノルマン系の人々が、
    中央ヨーロッパ北部の森林や川の流域に移り住んだ。 現代になってその骨格は、
    デュッセルドルフ近郊のネアンデルタル谷で発見され、発見場所に因んで
    ネアンデルタール人と名付けられた。

    201824bc6

    紀元前400年までには、ケルト人が現在のドイツ南部と西部を含む中央ヨーロッパに
    住み着いて行った。 ケルト人は、農業を営み、家畜を飼い、農耕や戦闘用の
    鉄器を作り、また、鉱石から金、銀、銅を精製していた。

    【チュートン人】
    紀元前100年頃には、北ヨーロッパのチュートン人が、ケルト人を圧迫しながら
    ドイツに移住して行った。 同じ頃、イタリア半島を拠点としながら、勢力を
    伸ばしていたローマ帝国の軍隊が、ライン川西岸のケルト人を征服した。 この
    ライン川は後に、ローマ帝国の属州ガリア(現在のフランス)と、ゲルマニア
    (ローマ人はライン川東岸にあるチュートン人の領土をこう呼んだ)との境を
    成す事になる。

    ゲルマニアの森林が深いため、ローマ人はチュートン人の農地や村落を征服する
    事が出来ないので、ライン川とドナウ川との間に要塞を築き、チュートン人が
    ガリアやイタリアに侵入するのを防いだ。

    ooacer

    しかし、紀元前4世紀までに、ローマ帝国はチュートン人の攻撃によって次第に
    衰退し、395年、帝国は東西に分断された。 これを機にゴート族やフラン族等の
    ゲルマン民族は攻撃を仕掛け410年、ゴート族はイタリアに進撃を仕掛し、首都の
    ローマを焼き払った。 ローマ皇帝は軍事力強化のため、ローマ軍にゲルマン兵を
    雇い入れ、ゲルマン人の指揮官の下で働かせた。 しかし、このような指揮官の
    ひとりであったオドアケルが、467年ローマに反逆し、首都を攻撃すると共に、
    皇帝を廃して、自らイタリアの支配者となった。 こうして西ローマ帝国は崩壊し、
    フランク族等のゲルマン民族がライン川を渡って、ガリアにあるローマ領を占領する
    ようになる。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    2017年10月10日、株式会社ブランド総合研究所が今年で12回目となる
    『地域ブランド2017』を発表した。 全国の消費者 3 万 745 人からの回答を元に、
    認知度や魅力度、イメージなど全78項目からなるランキングだが、注目は
    『都道府県の魅力度ランキング』である。
    102401
    上位は例年通り、1位北海道、2位京都府、3位東京都と不動の3県となっているが、
    4位沖縄県、5位神奈川県、6位奈良県、7位大阪府の上位7位までは、昨年と全く
    順位が同じ。 1位は9年連続で北海道となっている。

    注目の最下位争いは、安定の茨城県がお約束の最最下位。 他の北関東の41位
    群馬県、43位栃木県は昨年と比較して、若干順位を上げたが、茨城県は、全く
    動かなかった。 南関東に属している筈の44位埼玉県も、常に最下位が射程
    距離圏内となっており、全く持って予断を許さない。 過去に再開に沈んだ県は、
    茨城県を除くと群馬県のみだが、埼玉県も十分に最下位を取れるだけの材料が
    出揃っている。



    【都道府県の魅力度ランキング2017】
    1位: 北海道
    2位: 京都府
    3位: 東京都
    4位: 沖縄県
    5位: 神奈川県
    6位: 奈良県
    7位: 大阪府
    8位: 福岡県
    9位: 長野県
    10位: 石川県

    11位: 長崎県
    12位: 兵庫県
    13位: 宮城県
    14位: 静岡県
    15位: 愛知県
    16位: 広島県
    17位: 青森県
    18位: 鹿児島県
    19位: 千葉県
    19位: 宮崎県

    21位: 大分県
    21位: 熊本県
    23位: 富山県
    24位: 秋田県
    25位: 山梨県
    26位: 新潟県
    27位: 島根県
    28位: 高知県
    28位: 滋賀県
    30位: 三重県

    31位: 和歌山県
    31位: 山口県
    33位: 香川県
    34位: 愛媛県
    34位: 岩手県
    34位: 福島県
    37位: 岐阜県
    38位: 山形県
    39位: 福井県
    40位: 岡山県

    41位: 鳥取県
    41位: 群馬県
    43位: 栃木県
    44位: 埼玉県
    45位: 佐賀県
    46位: 徳島県
    47位: 茨城県



    市町村の魅力度ランキングでは、この 10年間1位から3位までを京都市、
    函館市、札幌市の 3 市が独占。 今年は仙台市や広島市、福岡市といった
    地方中核都市の評価が上昇しました。

    【市町村の魅力度ランキング2017】25位まで
    1 位: 京都市 京都府
    2 位: 函館市 北海道
    3 位: 札幌市 北海道
    4 位: 小樽市 北海道
    5 位: 鎌倉市 神奈川県
    6 位: 横浜市 神奈川県
    7 位: 神戸市 兵庫県
    8 位: 金沢市 石川県
    9 位: 富良野市 北海道
    10位: 屋久島町 鹿児島県
    11位: 仙台市 宮城県
    12位: 日光市 栃木県
    13位: 那覇市 沖縄県
    14位: 福岡市 福岡県
    15位: 軽井沢町 長野県
    16位: 熱海市 静岡県
    16位: 伊豆市 静岡県
    18位: 箱根町 神奈川県
    19位: 別府市 大分県
    20位: 登別市 北海道
    21位: 名古屋市 愛知県
    22位: 渋谷区 東京都
    23位: 長崎市 長崎県
    24位: 新宿区 東京都
    24位: 旭川市 北海道

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    セブ島滞在3日目は、たまたま、ネットで発見した、地元では何でも願いが叶う
    教会として非常に有名な、シマラ教会へと行きました。 セブ・シティーの
    南バスターミナルからバスに揺られること丸2時間、 セブ島南部にある、
    シボンガという街の郊外にこの巨大で豪華絢爛な教会はあります。

    【シマラ教会】
    IMG_6898

    セブ島には、バス停というものが存在しないため、降りたい場所をあらかじめ
    車掌に伝え、希望の場所で降ろしてもらいます。 シマラ教会への行き方は、
    南バスターミナルからオスロブ行きかシボンガ(シマラ)行きのバスに乗ります。
    今回は、たまたま朝5時40分南ターミナル発のシボンガ(シマラ)行きのバスに
    乗りました。 このバスは冷房なしのため、窓は全開、ドアも閉まりません。

    バスの種類は、大きく分けて冷房付きと冷房なしに分かれるのですが、バスの
    種類が全く異なるのに、料金は同じ80ペソ(160円)です。 シマラ教会は、
    現地のツアーでも行けるのですが、セブのオプショナルツアーは、大体が1万~
    2万円が相場であるため、このバスがいかに安いのかが分かると思います。
    シボンガの中心部から更に15分程度行った何もない場所がシマラです。

    IMG_6880
    IMG_6882
    IMG_6884
    IMG_6885
    IMG_6886
    IMG_6888
    IMG_6893
    IMG_6892
    IMG_6889
    IMG_6890
    IMG_6891
    IMG_6895
    IMG_6896
    IMG_6898
    IMG_6901

    セブ・シティーは渋滞だらけで、シマラ教会までは、2時間半程度掛かると聞いて
    いたたため、かなり早めに宿を出たのが功を奏し、午前7時20分には、シマラ教会の
    前に到着しました。 教会が開くのは午前8時からであるため、ここでソーセージ
    (10ペソ)と卵(15ペソ)を朝食として取りました。 朝食を歩きながら食べて
    いる間に、急に雨が降り出しましたが、15分程度であっという間に止んだため、
    教会が開いた頃には、すっかりと晴れ渡っていました。 神聖な教会内は、ドレス
    コードが厳しく、短パンやサンダル等は禁止されているため、シマラ教会を訪れる
    際には、服装に気を付けましょう。

    シマラ教会は、フィリピン人の憧れの地で、一生に一度は行きたい場所だとか。
    日本で言うところのディズニーランドのような場所で、豪華絢爛なその見た目も
    ディズニーランドそのもの。 何でも願いが叶う教会では、お布施やお賽銭のような
    ものは必要なく、実際に願いが叶った際に、お礼参りを行い、色々な物を寄進する
    そうです。 早い話が、願いが叶わなかった場合は、一切何も供える必要性なし。

    教会内に限らず、セブは野良犬が非常に多く、普通に道を歩いていました。
    教会内にも多数の野良犬がおり、フィリピン人のおおらかな国民性を見た気が
    しました。 午前8時の開門と共に、中に入り、早速教会内探検の始まりです。

    シマラ教会は、非常に巨大な教会であるため、教会の中まで入るまでが大変。
    未だ未完だそうで、あちこちで工事が進められていました。 尚、シマラ教会へは、
    南バスターミナルからシマラまでが1時間半弱で80ペソ(160円)、その後、シマラ
    からのバイクタクシーが5分で20ペソ(40円)で、合計でも2時間掛からずに
    到着する事が出来ました。

    IMG_6905
    IMG_6906
    IMG_6907
    IMG_6908
    IMG_6910
    IMG_6911
    IMG_6912
    IMG_6914
    IMG_6915
    IMG_6916
    IMG_6917
    IMG_6920
    IMG_6921
    IMG_6922
    IMG_6923

    教会の内部は、カトリックの教会と言うよりも、聖母マリア様の教会という感じが
    しました。 よって、幼い頃のキリストの像が多く、内部の博物館では、色々な
    国のマリア様の像が並んでいます。 カトリックとプロテスタントとの代表的な
    違いのひとつに、聖母マリア様を敬うかどうかというものがありますが、
    カトリックは、マリア様を非常に敬うため、このような豪華絢爛な教会となって
    います。

    教会内には、様々なマリア様とキリストの像が並んでいますが、観光客はさほど
    おらず、地元の巡礼者の方ばかりで、敬謙なクリスチャンでなくとも、心が洗われる
    想いがしました。 教会内の売店では、数々のキリストグッズが大量に販売されて
    いますが、結構高い。 信心深い人であれば、この値段でも購入すると思うのだが、
    とりあえず、お手ごろな十字架を1つ購入しました。

    IMG_6936

    シマラ教会で最も奥の間にあるこの教会のご本尊的な存在のマリア像。 この像は、
    非常に人気があるため、ものの10秒程度しか願い事が出来ないという、とても
    ありがたい像です。 その手前にあるマリア様の像は、1名に付き1分以上もお祈りを
    するため、朝早く行かないと、30分以上も待たされる事となるため、早めに
    この教会に到着する事をお勧めします。

    IMG_6934

    シマラ教会の内部は、無数のマリア像とキリスト像がありますが、それぞれの像に
    願いを掛ける人たちが多数居るため、木像の足の一部が若干削れています。 日本で
    言うところのお遍路のような感じにあたるため、カトリックが国教のフィリピンの
    中にあっても、かなり特別な教会のようです。 教会内の博物館中には、世界中の
    マリア像、並びに、キリスト像を展示しているフロアーがあります。 ここでは、
    中国風のマリア様やインド風のマリア様が多数展示されています。

    約1時間半程で、シマラ教会ともお別れ。 カトリックとプロテスタントの違い
    として、教会が豪華か質素かの違いがありますが、カトリックの教会は非常に
    豪華絢爛なので、その分をどこかに寄付として渡してあげた方が、人助けになると
    考えてしまうのは、プロテスタントに毒されているからなのか。

    IMG_6924
    IMG_6925
    IMG_6933
    IMG_6929
    IMG_6930
    IMG_6928
    IMG_6934
    IMG_6936
    IMG_6937
    IMG_6938
    IMG_6940
    IMG_6941
    IMG_6942
    IMG_6946
    IMG_6948

    シマラ教会付近は、教会内部の豪華絢爛な雰囲気とは似ても似つかぬ貧困地域
    なので、教会を一歩外に出ると、現実を突きつけられます。 最寄のシマラの
    バス降り場(セブにはバス停と言う概念がない)は、こんな感じになっており、
    車掌に前もってシマラ教会の最寄でバスを降ろしてくれるように頼んでおかない
    限り、この教会には到達出来ません。

    IMG_6960

    この場所から坂道を登ること5分程度にあるのが、豪華絢爛なシマラ教会です。
    バイクタクシーの値段は交渉性で、行きは30ペソ(60円)、帰りは20ペソ(40円)
    でした。 ここから頑張れば40分程度で歩いてシマラ教会まで歩いて行く事も出来
    ますが、60円程度であれば、バイクタクシーを利用した方が断然便利です。 尚、
    シマラ手前のシボンガ市中心部でバスを降りてしまうと、シマラ教会までは、20~
    200ペソ(40円~400円)程度請求されるとか。 最後は、セブ・シティー行きの
    バスが通り掛った際に、手を上げてバスを止めてからバスに乗りこみます。

    シボンガからセブ・シティーまでの帰りのバスは冷房付きで、座席もそこそこバネが
    利いていたため、行きのバス程は揺れが激しく、早朝に起きて寝不足もあって、
    途中で1時間程度寝込んでしまいました。 冷房なしのバスの場合は、揺れが
    凄まじく、お尻が席から何度も浮く感じの揺れ方をするため、居眠りは絶対に
    無理です。

    IMG_6983

    セブ島南部にある諸都市へのバスは、南バスターミナルから出ています。
    ここから北ターミナルへは2キロ以上も離れているため、タクシーで移動するしか
    ありません。 南ターミナルの方がセブ中心街へは近いため、ここから1キロ程度
    歩いて、中心部へと向かいました。

    セブ島では、基本的にバスが一切走っていないため、バスは都市間を結んでいる
    高速バスしかありません。 空港とセブ・シティーを結ぶバスもありません。
    全体的にバスが不足しているのだと思います。 バスターミナル付近は、路上に
    商品を広げた人たちが多く、活気がありますが、特に欲しい物はないため、素通り
    しました。 フィリピンでは、手にビニール袋をして手づかみでご飯を食べるのが
    普通らしい。

    IMG_6953
    IMG_6955
    IMG_6956
    IMG_6957
    IMG_6958
    IMG_6959
    IMG_6960
    IMG_6961
    IMG_6964
    IMG_6971
    IMG_6973
    IMG_6981
    IMG_6983
    IMG_6985
    IMG_6988

    午前5時40分に南ターミナルを出発したため、午前11時20分にはセブ・シティーへと
    戻って来てしまい、予定よりも2時間程度余裕が出来たため、最後はセブ・シティー
    中心部を散策しました。 最後に食べた昼食は、地元で大人気のハンバーガー
    ショップのジョリービー♪ ハロハロは、フィリピンが発祥らしい。 全て残金を
    逆算して不要なペソを使ってスーパーで買い物をしたため、最終的に残ったペソは
    5ペソのみ。 これだけ食べて164ペソ(328円)でした。 但し、最後に空港で
    750ペソを現地通貨で支払わなければならなかったため、この努力は無駄でした。
    クレジットカードでの支払いは出来なかったため、空港で再度ペソに両替をする
    こととなりました。

    セブ・シティーの全体的な雰囲気としては、70年ぐらい前の終戦直後程度の生活
    レベル。 ちょっと裏通りに入ると、非常に汚い。 果物は大体10~25ペソ前後
    でした。 果物は、日本でも見たことがないようなものばかりで、物価も非常に
    安いため、街角で色々な果物を試して見るのも良いかも知れません。

    IMG_6994

    マクタン・セブ国際空港は、セブ島にあるセブ・シティーからは、タクシーで
    丸1時間程度掛かります。 空港内はかなりリゾート地らしいのですが、空港から
    一歩外へ出ると、雰囲気が全然違うため、ホテル周辺のリゾート地とこの空港だけ
    しか見ていない場合は、セブ島は単なるリゾート地としてのイメージしか残らない
    かも知れません。

    マクタン・セブ国際空港では、出国時に750ペソを現金で支払う必要性がたるため、
    手持ちのペソが足りず、一旦空港で全ての手続きを済ませてから、再度両替のために
    空港の外に出ることに。 現金でしか支払いが出来ないのであれば、窓口の直ぐ
    隣りに両替所を置いておいてくれれば良いものを、そんな気の利いた施設はセブには
    ないため、いっそのこと、通常通り、支払い時に出入国税と空港利用税を全て
    あらかじめ徴収して欲しいです。 帰りの飛行機は、セブ空港からは4時間40分
    でした。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ