多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    アルマアタ(アルマトゥイ)

    アルマアタ(アルマトゥイ)近郊、標高1,700mにあるメデオスタジアム。
    冬はこのスタジアムがスケートリンクになりますが、春のため、氷は張って
    ありませんでした。 この場所は26年前にも1度来ているので、もう1度来て
    見たかった。 ただし、26年ぶりの割には、特に何かが変わったという
    雰囲気はなく、昔のままでした。 当時は、スケートリンクではなく、何かの
    スタジアムだったと思います。

    メデオスタジアム
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    メデオスタジアムから上には、更にシャトルバスで登る事が出来ます。 5月初め
    とは言え、まだまだ雪が残っており、スキーが出来るようになっていました。
    この山を越えると、すぐそこはもうキルギス。 アルマアタは、中国にも
    キルギスにも近過ぎるため遷都されたと言われています。

    シムブラク スキーリゾート

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    メデオスタジアムからこの場所には、シャトルバスの他、ロープウェイでも登る事が
    出来ますが、料金がちょっとお高目のため、帰りもシャトルバスで下りる事に
    しました。 高原リゾート地は、スイスを思わせますが、ここはカザフスタンですw
    中央アジアでは、カザフに限らず、鷲を使った狩りが盛んであったため、今でも
    観光地では、この様な風景を見ることが出来ます。 この日は気温5度と若干
    寒かったものの、屋外でのアクティビティーも色々行われていました。

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    初代大統領記念公園

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    メデオスタジアムから地上へと戻り、次の場所へ行く途中で、たまたま通り掛った
    「初代大統領記念公園」。 娘は大統領選で敗れ去りましたが、初代大統領の
    名前は、首都の名前になったり、アルマアタの通りの名前になったりと、今でも
    権力を持っているのが良く分かります。 因みに、デニス・テン選手の自宅が
    あった通りの名前が「ナザルバエフ通り」と改名されました。

    途中から乗り合いタクシーで一緒になったポーランド人が、アルマアタ近郊に
    ある世界で2番目に高い湖である「大アルマアタ湖」に行くと言うので、一緒に
    付いて行くことにしました。 ところが、霧で一寸先は闇w 下界はそこまで霧が
    出ていなかったものの、上に登れば登るほど、霧が行く手を阻みました。。

    湖自体もガチガチに凍っており、仕方がないので、石を投げて氷を破壊して遊び
    ましたw 山頂から少し下ると、霧が晴れて来ました。 途中で、この様な観光客
    向けのユルタがあったため、途中で馬乳酒クムイスと駱駝乳酒シュバットを飲んで
    みたものの、馬乳酒はすっぱ過ぎて、らくだの方がましでした。

    【山頂にある大アルマアタ湖と地下鉄】
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    建設に20年以上もの歳月を要したアルマアタの地下鉄。 建設当時は都市名が
    アルマアタで、国名はカザフ共和国でしたが、完成時には、都市名がアルマトイに、
    国名はカザフスタン共和国へと変更されています。 それプラス、アルマアタは
    遷都されているため、元政府機関の巨大な建物が市内に残骸の様に残っています。

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    ソ連崩壊と新生ロシア
    ロシアの歌謡会は、過去に2回、大きな革命的な変革を経て、現在の形になった
    のだが、ロシアの現代ポップスをまともに語れる人間など日本ではほぼ皆無で
    あるため、この辺でその簡単な歴史をまとめておきませう。



    1986年のロック解禁とソビエト・ロック
    それ以前のソ連では、ロックは完全に禁止で、演奏どころか、聞くのも当然禁止。
    当時、国民は、ビートルズのカセットテープを勝手にダビングして、皆で回し
    聴きをしていた。 その後、ロックが解禁になって、一番最初にロックを
    歌ったのは、確か、ソフィア・ロタルやウラジーミル・クジミンの辺りだったと
    思う。 ソ連の音楽が本当の意味で始まったのは、この時からで、それ以前は、
    歌謡曲しかなかった。

    ウラジーミル・クジミン (Владимир Кузьмин)


    ソフィア・ロタル(София Ротару)


    キノー/ヴィクトル・ツォイ(КИНО - Виктор ЦОЙ)


    ソ連時代、特に、スターリンの時代は、粛清とかも普通に行われており、80年代は、
    流石にそこまでは酷くはなかったが、ソ連末期時代は、壁の中にマイクが仕掛けて
    あったりもしたため、ロックを聞いていることが周囲にバレると、秘密裏に処理
    (強制労働、シベリア送り等)されてしまうこともあったものの、ロシア人は
    仲間意識が非常に強いため、皆見てみぬ振りをしていた。 その昔聞いた話では、
    スターリンの時代は、ドイツ語の辞書を所持していただけで、シベリア送りと
    なって処刑されたお方とかもいたとか。 1991年12月末のソ連崩壊後、ロシアは
    長期に渡り経済的にどん底の時代が長く続いたため、音楽にも大きな変化が
    現れたのは、もう少し先のお話。 尚、ソ連は、国民100%が国家公務員であった
    ため、歌手やミュージシャンも全員国家公務員であった。

     【1999年から人気歌手が続々とデビュー】
    この時代にデビューをしたか歌手の中で、最も代表的なのがt.A.T.uで、この
    頃からロシアの音楽は革命的な大変化を遂げた。 それ以前のロシアの音楽は、
    聞いていてダサい音楽しかなく、ハッキリ言って、耳障りな音楽ばかりだった
    のだが、1997年の経済危機を乗り越えた辺りから、国内の経済が上向き始めた
    ため、音楽にも余裕が出て来た模様。 現在、ロシアの歌謡界で活躍をしている
    若手~中堅どころの歌手は、この前後にデビューを果たしている。

    t.A.T.u


    ヂアナ / イリーナ・ネルソン(Диана / Ирина Нельсон)


    ソ連邦内では、「メロージヤ(Мелодия)」と言う唯一の国営レコード会社が
    存在しており、ソ連国内で販売されるレコードは全て「メロージヤ」から
    発売されていた。 尚、ソ連崩壊直後、新生ロシアでは、一応CDは、発売
    されていたが、当時の平均的な月給が日本円に換算して3,000~6,000円程度で
    あったのに対して、CDは贅沢品として扱われていたため、1枚約3,500円程度も
    していた時代が長かった。

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    民間調査会社のブランド総合研究所は10月17日(木)、2019年の
    「都道府県魅力度ランキング」を発表した。 調査の結果、都道府県の中で
    最も魅力度が高かったのは北海道で、都道府県の調査を開始した2009年から
    11年連続で1位となった。 一方、47位は茨城県で、こちらも2013年から
    7年連続で最下位という結果となった。
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    この調査は、全国1,000の市区町村と47都道府県を対象に実施される
    「地域ブランド調査2019」によるもの。 調査項目は認知、魅力、情報接触、
    観光意欲、居住意欲など計84項目に渡り、全国の20代から70代までの消費者
    3万1,369人から有効回答を得た。

    魅力度ランキング1位の北海道の点数は61.0点で、2位の京都府の50.2点と大差を
    つけての首位獲得となった。 北海道は観光意欲度と産品購入意欲度が1位、
    居住意欲度も3位と、他指標の結果でも上位になっている他、市区町村の
    魅力度ランキングにおいても、1位函館市、2位札幌市、4位小樽市、
    9位富良野市と、TOP10のうち4つを北海道の市町村が占めた。

    この他、都道府県魅力度ランキング上位は、3位が東京都(43.8点)、4位が
    沖縄県(40.8点)、5位が神奈川県(34.5点)と続き、この5都道府県の順位は
    前年と変動がなかった。

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    ビシケク(フルンゼ)
    ビシケク散策は続きます。 中心部にはソ連時代の建築物が数多く残っているため、
    ソ連を感じたいのであれば、ビシケクはうってつけ。 大型で大げさなデザインは、
    ソ連式共産主義の象徴。 記念碑が妙に多いのもソ連の特徴で、街の至るところに、
    この様な記念碑が建っています。
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    ビシケク中心部を歩いていたところ、大学があったため、中を見に入りました。
    最近は、ロシアの大学とかでも、入り口にゲートが据え付けられており、なかなか
    中まで入るのは難しいものの、この大学には特に何もなかったため、すんなり中へ
    入れました。 地球の歩き方を持たずに適当に散策をしたため、恐らく、キルギス
    国立大学ではないかと思われます。

    ビシケクは緑の多い街で、市中心部でもこんなに緑があります。 晴れているので、
    暖かいように見えますが、この日の気温は5月の初めなのに、何と7度。 ビシケクは
    結構標高が高いため、涼しいを通り越して結構寒い。 よって、ゲストハウスの
    オーナーから、ジャージと傘を借りて出掛けました。

    【ビシケク】
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    楽しかったビシケクともこれでお別れ。 市内から約30キロ離れたビシケク空港に
    向かいます。 キルギスにもYandexタクシーがあるため、オーナーにタクシーを
    呼んで貰いましたが、このゲストハウスでは、色々と話し込んだため、非常に
    お名残り惜しい。 ビシケクに行ったら、またこのゲストハウスに絶対に
    泊まります。

    こちらは、ビシケク空港にあったキルギス土産の数々。 このモンゴルのゲルの様な
    物は、ロシア語では「ユールタ」と言うのだが、学生時代に覚えた単語なのに、
    意外と忘れていませんでした。

    【ビシケク】
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    ビシケク・マナス国際空港から、カザフスタンのエア・アスタナでアルマ・アタへと
    向かいます。 キルギス人に言わせると、カザフスタンは歴史を勝手に書き換えて
    いるそうで、元々は、どちらもキルギスだったとか。 中央アジアの歴史は、
    スターリンによって、かなりの資料を処分されてしまったため、明らかになって
    いない部分が多いものの、中央アジアの第一人者は日本には存在しないため、
    これから中央アジアを研究すれば、誰でも第一人者になれなくもないw マナス
    国際空港の空港コードは、旧名のFRUのまま残っております。

    【ビシケク・マナス国際空港】
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    首都 ビシケク
    ビシケク空港に到着後、そのままタクシーで約30キロ離れたホステル
    Mukarama-Apa へと向かった。 キルギスはカザフスタン程では
    ないものの、国民全員がロシア語を話せるため、旅行が非常に楽♪
    こちらのホステルでは、ロシア在住のキルギス人と2日合わせて合計で
    6時間も延々とお話をしておりました。 ビシケクは、意外と高地に
    位置しているため、外に出ると結構寒いため、ゲストハウスのオーナーから
    トレーナーと傘を借りてビシケクの中心部へと出掛けました。

    ゲストハウス Mukarama-Apa
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    ロシア語圏では、お茶を飲みながら、延々とお話をするのが普通なので、
    ロシア語を話せると非常に便利。 尚、こちらのホステルでは、度々日本人も
    泊まりに来るとのことで、そのお手紙を見せてもらいました。 かなり親日家の
    オーナーで、日本人にもっときて欲しいと申しておりました。

    料理を作って貰ったり、お世話をして貰ったのは、こちらの娘さんかと思いきや、
    翌日オーナーから聞いた話では、ロシアからやって来たお客さまで、体調が
    悪いので、手伝ってもらっただけと申しておりました。 旧ソ連邦内では、
    これまで生活が非常に厳しかったため、皆助け合いの精神だけは、絶対に
    忘れていないのである。

    【ビシケク】
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    ビシケクのゲストハウスから歩くこと30分。 市中心部の政府施設が集中している
    場所までやって来た。 キルギス人は人種的に元々はコーカソイドだったのだが、
    現在のロシア領のトゥヴァ付近から大量の移住者がやって来て、完全に
    モンゴロイド化した民族であるため、見た目的に非常に日本人に似ています。
    一説によれば、「肉が好きな者はこの地に残りキルギス人となり、魚が好きな者は
    東に移動して日本人になった」とまで言われている程、キルギス人は、日本に
    対しては親日意識を持っている。

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    ビシケクの中心地では、巨大なキルギスの国旗を守るため、衛兵がその麓で番を
    していた。 恐らく、定時になると、ロシアの衛兵交代と同じく、衛兵が交代する
    のだと思う。 この付近が政府機関が集中している地域で、キルギスの心臓部と
    言える。

    【ビシケク中心部】
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    トルキスタン (Turkestan / Turkistan) とは、チュルク系民族が居住する中央アジアの
    地域を指す歴史的な地域名称であり、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、
    キルギス、タジキスタン、トゥルクメニスタンと中国にまたがっている地域を指す。
    人口順では、ウズベキスタン、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、
    トゥルクメニスタンの順にトルキスタン人の人口の割合が多くなっており、中国の
    新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と呼ぶこともある。

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    ビシケクのソ連時代までの旧名は「フルンゼ」であるため、今でもところどころに、
    このフルンゼの文字が残っている。 ミハイル・フルンゼとは、ソビエト連邦の
    政治家で、ロシア革命前後におけるボリシェヴィキの指導者の一人。 ソ連陸海軍
    人民委員および共和国革命軍事会議議長を務めた人物。 旧ソ連では、革命家の
    名前を採った都市名が多かったのだが、ビシケクもその1つ。 ビシケクという
    都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒を作る時の撹拌器の名前に由来する。

    ビシケク中心部にある遊園地でお腹が空いたため、このハンバーガーを食べたが、
    店員が余りロシア語が上手ではなく、60ソムのことを「600ソムです」と言って
    来たため、「60でしょ?」と返したところ、「ああそうだ」と言って来ましたw
    挙句の果てに、おつりが間違っていたので、突っ込みを入れておきましたww

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    タシケントは、旧ソ連邦内でも第4の都市であったのだが、現在のタシケントは
    旧ソ連時代に拡大したエリアが多く、歴史的建築物は多くは残っていない。
    このため、市内には、余り見る物がないため、とりあえず、地下鉄に乗って街の
    北西部にある昔のタシケントの雰囲気が残るエリアにあるバザールを見に行く
    ことにした。 空港そばにあるホステルからタシケント駅までは、約2キロ、
    徒歩30分の距離。 その前に、無料のホステルの朝食堪能♪ カロリー高めの
    日本の食事と比較しても、ウズベキスタンの食事は素朴なのが良く分かる。

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    とりあえず、タシケント鉄道駅に到着。 1年前の地球の歩き方を持って来て
    しまったため、「地下鉄内では撮影禁止」との記載があったのだが、気軽に
    写真をバシャバシャ撮っても特に何も言われないため、おかしいと思っていた
    ところ、撮影禁止は昨年解除されたとか。 例え何か言われたとしても、
    こちらは、ロシア語で色々と言い返してやるので、特に問題はないのだがw

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    【タシケントの地下鉄】
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    地下鉄ウズベキスタン線のチョルスー駅で降りて、旧市街最大のバザールである
    チョルスー・バザールへと向かいます。 このバザールは、中央アジアでも
    最大規模で、バザール内はとにかく広大。 日用品からお土産、家具まで何でも
    揃うのが特徴、バザールが最も賑わうのは午前中なので、なるべく早めに訪れるのが
    おすすめ。 バザール内は、2年ほど前までは撮影禁止であったが、禁止が解除
    された。

    チョルスー・バザール
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    【チョルスー・バザール】
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    再度、タシケント鉄道駅からタシケント空港そばにあるホステルまで徒歩で移動し、
    荷物を持って、再度徒歩でタシケント空港まで移動しました。 タクシーで
    移動してもさほど料金は高くはないのだが、ホステルのおばさんに空港までは
    歩いても15分程度であるため、タクシーを呼ぶよりも、歩いた方が早いと言われた
    ため、景色を楽しみながら、歩いて行くことにした。 ホステル内では、全員
    ロシア語が通じたが、1名だけ、なぜか英語で話したがる従業員がいたため、
    その人とだけは英語で話した。

    次の目的地は、カザフスタンのアルマトイ経由でキルギスのビシケクを目指します。

    【タシケント空港】

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    サマルカンド観光のハイライトは、中心部にあるレギスタン広場だけではなく、
    実は、シャーヒ・ズィンダ廟群も見所となっている。 この廟群は、11世紀から
    19世紀までの9世紀の間に建造され、現在では20以上の建造物の集合体と
    なっている。

    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群は建物の建つ位置の高さから大きく3つのグループに
    分かれており、これらの建築物はチャルタクと呼ばれる、4つのアーチ状をした
    ドーム型の通路で結ばれている。 当時の建築物の基礎部分や墓石などの主な部分は
    現代まで残っており、建物の大部分は14~15世紀に建設された。 16~19世紀に
    再建築がなされたが、建物の構成や外観は変化していない。

    シャーヒズィンダ廟群に入る際に、入り口に2台あったバンコマート(ATM)で
    現金を引き出そうとしたところ、2台共故障していたため、お金が全く引き出せず、
    係りの人に相談したところ、クレジットカードでも大丈夫と言われたため、窓口で
    カードを渡したところ、そのクレジットカードのターミナルも壊れていたため、
    タダで入って良しと言われましたw

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    サマルカンドは、「青の町」と言われるだけあって、建物は基本的に青が多い。
    手作りで焼かれた陶器を組み合わせて作られた建物は、非常に美しい。 基本的に
    霊廟であるため、ところどころにお墓があり、歴史の深さが感じられた。

    シャーヒ・ズィンダ廟群内部は、どこまでも青く、霊廟の内部はこのような構造に
    なっていのだが、数世紀に渡り増築を繰り返したたため、お墓がむき出しの
    ままとなっている。

    青いタイルの模様を1つづつ見て行くと、こんな感じとなる。
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    市場とシャーヒ・ズィンダ廟群の間には、前ウズベキスタン大統領のカリモフ氏の
    廟所であるハズラティ・ヒズル・モスクがあり、常に参拝者が絶えない。

    ハズラティ・ヒズル・モスク
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    P_20190501_134501

    サマルカンドを後にして、タシケントへと向かいます。 例によって、列車の
    チケットが取れないため、タクシーでの移動。 サマルカンド→タシケントの
    距離は約350kmで、移動時間約5時間、30ユーロ。 今回は、途中でタクシーを
    乗り換えることなく、全て同じタクシーでの移動となりましたが、サマルカンドの
    ホテルに2つ荷物を置いて来てしまったため、その旨をタクシーの運転手に話した
    ところ、速攻で電話を掛けて、後続のタクシーでその荷物を持って来て貰える
    ことになりました♪ 翌朝の早朝に、タシケントのホステルにその荷物が届いて
    おりました。 ウズベキスタンでは、お金で解決出来ない問題はない。
    Byタクシー運転手談w

    サマルカンド駅
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    タシケントは旧ソ連邦の中では、第4の都市であったため、このサマルカンドでも
    バンコマートのATMがそこら中にあるのかと思いきや、なかなかの独裁国家で
    あるため、バンコマートがほとんどない。 よって、お金を引き出すためだけに、
    タクシーに乗る必要性があり、尚且つ、かなり大手の銀行に行かない限りは、
    米ドルの引き出しが出来ない。 最初に行った銀行では、パスポートと仮住所
    登録票が必須であるため、更にタクシーに乗って、大手の銀行に行って下さいと
    言われたため、お金を引き出すのだけでも、3時間程度の時間を要したため、
    ウズベキスタンへ行く際には、現金を必ず用意しましょう。

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    ウズベキスタンの古都サマルカンドは、シルクロードの要衝として栄えながら、
    13世紀にモンゴル軍の侵攻によって廃墟と化した。 この地を甦えらせたのが、
    一代で大帝国を築き上げた英雄ティムールであった。 ティムールは世界の
    どこにもない美しい都市を目指し建設しようと、各地の遠征先から優れた技術者や
    芸術家たちを連れ帰った。 建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる
    鮮やかな青色タイルは、中国の陶磁器とペルシアの顔料が出合って誕生したもの。
    まさに「文化交差路」のサマルカンドは2001年、世界遺産に登録された。

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    サマルカンド旧市街にあるレギスタン広場の寺院の中は、現在では、お土産屋と
    なっているものの、これらの建物は、元々は学校で、イスラム建築の粋を結集し、
    この様な豪華絢爛な内装となっている。

    シルクロードの重要交易地であったサマルカンドは、長らくこの地の首都であった
    ため、様々な文化を吸収して、独自の文化となった。 サマルカンドは、元々は
    イスラム文化圏ではなかったそうで、西遊記の元となる「大唐西域記」を記した
    玄奘三蔵(三蔵法師)も実際にこの地を訪れたとか。

    中央アジアでは、ウズベキスタンに限らず、このおじいさんの焼き物が至る
    ところにあるのだが、これは、ユーモアのシンボルだそうで、手に持っている物も
    パン、すいか、弦楽器など、中央アジアを代表する物ばかり。

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    サマルカンドで見るべき物は、レギスタン広場だけではなく、その他にも色々と
    見る物があります。 サマルカンドは、紀元前から栄える歴史の古い町であるため、
    街全体が世界遺産に指定されている。

    ヒビニハムモスクは、中央アジア最大のモスクで、たった5年でこの巨大なモスクを
    建設しのだとか。 建設を急ぎ過ぎたため、ところどころ、建物が崩壊しているのが
    難点。。

    ヒビニハムモスク
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    中央アジア最大級のモスク、ヒビニハムモスクの真向かいにあるのは、ティムールが
    愛した妻の霊廟。 ヒビニハムモスクの巨大な正面玄関を入ると、西側には
    大モスク、南と北には小モスクがあり、四方にはミナレットが建っている。

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    沖縄・宮古島への旅♪
    宮古島のお隣りの島にある新しく完成したばかりの下地島空港。
    空港自体も、完成したばかりのため、新築のにおいがしていました。
    まずは、空港でレンタカーを借りて、下地島空港のそばにある浜辺へと
    移動し、少しだけ海岸で遊びました♪ 沖縄の海はこんなにも綺麗なのに、
    泳いでいる人が殆ど居ない。 下地島空港すぐ隣りにある「通り池」は、
    下がそのまま海と繋がっているそうで、付近には、遊歩道が整備されており、
    散歩をするのにちょうど良いと思います。

    【下地島空港】
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    下地島空港は、伊良部島を挟んで、宮古島の隣りの隣りの下地島にあるのだが、
    南国だけあって5月でも暑い。 宮古島は周囲の島全てと橋で繋がっており、
    下地島にも車でそのまま来ることが出来ます。 その後、下地島から伊良部島を
    通り、宮古島の対岸までやって来ました。 この橋は、無料で通行出来る
    橋としては、日本最長なのだとか。 宮古島は基本的にさんご礁で出来ている
    島なので、さんごが死ぬと、この様な白い砂になります。 生きているさんごは、
    若干茶色い色をしています。

    【下地島】
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    うえのドイツ文化村には、沖縄サミットの際に、シュレーダー元首相がやって
    来たそうで、その記念碑がありました。 沖縄サミットとは、あの2,000円札が
    発行された時のサミットです。 そこから移動すること約40分、宮古島最西端の
    東平安名岬へとやって来ました。 ここから沖縄本島までは、約150km離れて
    いるそうです。

    【うえのドイツ村】
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    東平安名崎から更に40分弱北に移動して、池間島にある本日のお宿へがある
    池間島へと到着しました。 池間島は、宮古島とは橋で繋がっており、すぐ
    目の前には、この様な美しい海岸があります。 離島気分を味わいつつ、
    この海岸で貝拾いをしました。

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    青の都 サマルカンド
    サマルカンドは、街全体が世界遺産に指定されています。 その中心部にある
    レギスタン広場は、イスラム文化の総力を上げて建設された正にイスラムの中心地。
    こちらの入場料は、ウズベク人、CIS国民、外国人のそれぞれの料金体系に分かれて
    おり、ウズベク人が3,000ソム、CIS国民が3万ソム、外国人が4万ソムであった
    ため、当初4万ソムを請求されたが、ロシア語で「ここに3,000ソムと書かれて
    いるのに、何で4万ソムなのか?と訊ねたところ、CIS国民は3万ソムです」と
    言われたため、3万ソムで入場しましたw 旧ソ連圏は、ロシア語が話せると、
    どこに行ってもお得♪

    【レギスタン広場】
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    レギスタン広場は、「砂の場所」という意味を持っており、広場内には、マドラサ
    神学校が三棟建っている。 向かって左側にはウルグ・ベク・マドラサ、右側に
    シェル・ドル・マドラサ、更に、中央にはティリャー・コリーモスクマドラサが
    建っているが、の内部は現在では全てお土産屋になっており、高い入場料を支払わ
    なければならない割には、博物館はないという矛盾を抱えている。

    この日は、どうもお祭りらしく、レギスタン広場では、学生らによる演奏が行われて
    いました。 レギスタン広場にあるモスクは、現在ではお土産屋として使用されて
    おり、中に入ると、様々なお土産が売られています。 日本人観光客が多いため、
    あちらこちらから「チョットミルダケ」の呼び込みをされますが、これは、
    ウズベク語では、「ソコノカモネギサン オミヤゲイッパイウリツケルワヨ」と
    言う意味なので、無視した方が良いです。

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    ウズベキスタンに限らず、この焼き物のおじいさんは、中央アジア全体で
    見られるお土産で、ユーモアの象徴なのだとか。 独特の青の装飾も美しく、
    このおじいさんの焼き物と、いかにもアラブのお土産っぽい雰囲気の物を
    1品づつ購入しました。

    【サマルカンド土産】
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    【サマルカンドの歴史】
    ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて
    文化交差点としてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。 1868年に
    中央アジア一帯はロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。
    サマルカンドは、元々ブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわち、
    タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定に
    よりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までサマルカンドが
    その首都であった。

    サマルカンドは、紀元前10世紀こ頃からイラン系民族のオアシス都市として
    発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、
    アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"で
    最後まで抵抗した。

    【サマルカンド】
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    712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に
    征服され、サマルカンドでのイスラム化が始まった。 イスラム時代を通じて、
    ブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。 751年の
    タラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラム世界で
    最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられている。

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    イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、建物の上部に虎の絵があります。
    これは、この建物の建築を指示した皇帝が自分の力を誇示するために書かれた物で、
    現在では、サマルカンドのシンボルとなっています。

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    現在、「不登校」により、多くの児童が学校に行くことを拒んでおり、
    社会問題となっている。

    10歳になる伊藤裕太君は、学校でいじめられ、クラス内でも孤立していました。
    その後、学校に行くことを嫌がるようになり、学校には行かなくなりました。
    裕太君は、両親に自分がどのように思っているのかを伝える機会をうかがって
    いたが、ゴールデンウィークに家族全員が集まった際に、もう学校には
    行きたくないと家族に告白した。

    この問題を解決するためには、両親と裕太君が共にカウンセリングを受けるか、
    自宅で学習を行うか、または、フリースクールに通うかの3つの選択肢が
    あったが、両親は最終的にはフリースクールを選んだ。  現在、裕太君は、
    自分のやりたいことをしているため、とても幸せな日々をおくっている。

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    文部科学省は、健康面や経済的な理由とは無関係な理由により、年間30日以上
    登校しない子どもを「不登校」と定義している。 この「不登校」という単語は、
    日本語にしかないため、英語では、「absenteeism(欠席)」、 「truancy
    (ずる休み)」、 「school phobia(学校恐怖症)」または、「school refusa
    (登校拒否)」等と翻訳されてる。

    不登校に対する社会的な見方は、この数十年間で劇的に変化した。 「不登校」は、
    1992年以前までは、「登校拒否」と呼ばれており、「拒否」と言う非常に強い
    意味を持つ用語が用いられていたため、学校に対する「抵抗」と考えられ、
    精神疾患の一種と考えられていた。 しかし、1997年には、この言葉は、
    より中立的な意味を持つ「不登校」へと置き換えられた。

    日本政府は、2019年10月17日、小中学校における年間30日以上の欠席日数が
    過去最高を記録し、2017年の144,031人から、2018年に164,528人に増加した
    ことを発表した。

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    フリースクールは、不登校児童の増加に応じて、1980年代に始まった。
    フリースクールとは、児童の自由と個性を尊重して運営されている代替学校です。
    フリースクールは、児童が自主学習をすることにより、義務教育の代わりと
    なってるのだが、児童らには、国から認定された卒業資格が与えられていない。

    フリースクールに通う児童の数は、1992年の7,424人から2017年の20,346人へと
    急増している。 不登校は、長期間に及ぶ可能性があり、若者が社会から完全に
    離脱し、部屋に閉じこもる「ひきこもり」として社会問題となっている。

    更に、自殺する児童数が増加し、2018年度の児童の自殺者数は、過去30年間で
    最も多く、332件となった。 2016年、児童の自殺者数の増加により、日本政府は
    学校に対して勧告を行う自殺防止法を可決した。

    多くの児童が学校を嫌がる理由は、さまざまあるが、文部科学省の調査によると、
    家庭問題、友人問題、いじめが主な原因となっている。 一般的に、不登校児は、
    他の児童、または、教師と仲良くないことが分っている。

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    12歳の森橋知恵ちゃんは、「多くの人達と一緒にいると落ち着きませんでした」
    「学校での生活は苦しかった」などと語り、不登校から選択性緘黙になり、
    外へ出る度に苦痛を感じていた。 家の外や家族以外の人たちとは話すことが
    できなくなったのである。

    知恵ちゃんは、現在の学校では支配的となっている非常に厳しい校則に違和感を
    感じていた。 タイツは無色、髪の毛を染めてはいけない、髪のゴムの色も
    決められており、更には、それを手首に付けることも禁止されていた。

    多くの学校では、児童の外見も規定しており、茶髪は黒く染めること、
    寒い時期でもタイツやコートを着用しないこととしている。 酷い場合には、
    児童の下着の色も決めている学校も存在している。

    70~80年代、校内暴力やいじめに対して、 厳しい校則が導入された。
    この問題は、90年代に一旦収束したが、近年になって、更に校則が厳しく
    なった。 この厳しい校則は「ブラック規則」と呼ばれ、労働者を搾取する
    「ブラック企業」がそのまま学校にも反映されている。


    現在、知恵ちゃんは、裕太君と同様に、東京のフリースクールに通っている。
    学校、保護者、児童による話し合いが持たれ、制服は廃止、更には、自分たちの
    活動を自由に選択できるようになった。 児童らは、それぞれが興味のあることを
    優先することが奨励されている。 国語と算数の授業には、パソコンが使用され、
    本や漫画のある図書館もある。

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    このフリースクールの雰囲気は、まるで家族のように、非常に良好となっている。
    児童は共有スペースに集まり、おしゃべりや一緒に遊ぶことができる。
    このフリースクールの設置目的は、社会的なスキルを伸ばすことであり、
    運動、遊び、勉強の何れにおいても、大きなグループにいる際に
    パニックにならないようにすることを目指している。 このフリースクールは
    最近、より広いスペースの場所に引越しを行い、毎日約10人の子供が通っている。

    フリースクールの経営者である吉川氏は、2010年、東京都府中市の住宅街にある
    3階建てのアパートに最初のフリースクールを開設した。 当初は、15歳以上の
    児童を予想していたものの、実際に来所した児童は、7~8歳であった。 しかも、
    そのほとんどの児童は、選択性緘黙であったため、学校では特に何もしなかった。

    吉川氏は、コミュニケーションの問題がほとんどの児童の不登校の根本にあると
    考えている。 吉川氏は、企業での出世街道に見切りを着け、40代前半に
    サラリーマンを辞め、父親が医者であった影響で、社会に対する奉仕事業を
    やりたいと考え、ソーシャルワーカーとなった。 このキャリアチェンジにより、
    子供たちが抱えているさまざまな問題に気付き始めた。 貧困や家庭内暴力が、
    学校生活に少なからず影響を与えていることが分った。

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    名古屋大学の内田教授は、児童が抱えている問題の1つとして、クラスの規模が
    大き過ぎる点を指摘している。 約40名もの児童が1年間を共に過ごす教室内では、
    色々なことが起きる。 クラス内では人口密度が非常に高いため、仲間意識が必須と
    なるが、これは学校のみならず、公共交通機関、その他公共の場でも同様のことが
    言えるのだが、これらの場所では、全て人口が過密状態となっている。 しかし、
    多くの児童らにとって、狭い空間での過密状態を強いることには問題がある。
    児童らは、狭いスペースで他の児童と共に過ごさなければならならず、このような
    過密状態では、快適には過ごせない。 このような状況下で不快感を感じることは
    当たり前なのである。

    更に、毎年同じ児童同士で固定されるため、何か問題が発生した場合、学校に
    行くことが苦痛となる。  このような意味では、フリースクールによる支援は、
    非常に有効的となるのである。 フリースクールでは、グループをあまり気にせず、
    一人一人の児童の考え方や、感情を重視できる傾向がある。 しかし、
    フリースクールが学校の代替施設として機能しているのにも関わらず、学校に
    おける教育システムには、依然として問題点が多く残っている。 児童の多様性を
    認めないことは、人権侵害であり、このことは、多くの人々が賛同している。

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    「ブラック校則」に対する批判は全国的に高まっており、東京新聞の最近の
    記事では、これらの問題を人権侵害と名指しし、児童の多様性を認めるべきで
    あると述べた。 8月には、「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」という
    グループが、[ブラック校則」を廃止するために6万人以上の署名を集め、
    オンラインで文部科学省へ嘆願書を提出し、理不尽な校則の調査を求めた。
    大阪府はすべての高校に校則の見直しを命じ、約40%の学校で修正が加えられた。

    文部科学省は現在、不登校を「異常」としてではなく、「傾向」として受け入れる
    よう求めている。 不登校の児童に問題があるのではなく、児童が望む環境を提供
    できない教育システムに問題があるのである。

    リソース: BBCニュース

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    日本とドイツは、戦後、灰の中から立ち上がり、経済大国にまで上り詰めた
    と言う点において、比較されることが多いものの、実は、日本人とドイツ人の
    働き方は、似ているどころか、全くの真逆。

    【ドイツの場合】
    大学の専門分野以外での就職は基本的に認められないため、例え、新入社員で
    あっても、その道のプロである以上は、即戦力としての活躍が期待されるため、
    ある程度の結果が出せない場合は、企業側から契約解除されます。 また、
    自分の大学の専門外の職種に転職する際には、再度その分野の大学に入り直さ
    なければなりません。

    夏と冬には、それぞれ3週間づつの長期休暇の消化が法律で定められているため、
    ドイツ企業では、部下がその有給休暇を消化出来ない場合、逆に上司が上層部から
    怒られます。 尚、ドイツの有給休暇には、病気は含まれません。 あくまでも
    健康な状態で取得するのが有給休暇であり、病気の場合は、更に有給休暇が別途
    取得出来ます。

    何でも合理性を好むドイツ人は、まず、話し合いによって、それぞれの役割分担を
    明確にしてから、共通のゴールにどうすれば最短距離で到達出来るのかを確認し、
    それぞれの社員の裁量により、全ての作業を最後まで責任を持って遂行します。
    よって、労働生産性が非常に高く、ドイツはEUの中でも断トツの経済力を誇って
    おり、日本人よりも遥かに労働時間が短いのに、日本以上の生活水準を維持して
    います。

    残業は基本的にはなく、土日祝日と夜10時には店自体が全て閉まってしまうため、
    土日祝日や深夜に出勤してまで働くという習慣も当然ない。 ドイツは基本的に、
    半社会主義的な国家であるため、基本的に、国が労働環境を管理しています。

    ドイツ系企業の特徴
    • 契約主義で個人の職務内容が明確、ルールや規則が重視され、 グレーゾーンを極力作らない
    • 質実剛健、職人気質で仕事へのこだわりも強い
    • 自分の主張をはっきり口にすることが求められ、議論することが好まれる
    • 風通しが良く、フラットなコミュニケーションが可能
    • 勤務時間のなかで最大パフォーマンスを出すことが求められる
    • 結果だけでなくプロセスも重視される
    • 仕事と生活は切り離してプライベートを重視するため、休みなども取りやすい
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    【日本の場合】
    大学の専門は全く無視され、とりあえず、適当な部署に専門職ではなく、
    総合職として配属されるため、新卒者の場合は、2年程度の時間を掛けて、
    ゼロから育成しなければならない。 しかも大学では全く学んでいないため、
    自分の専門分野であったとしても、新卒から十分な活躍など期待されない。

    大学の専門外の分野への就職も気軽に出来るため、分かりやすく言うと、
    日本企業は、ズブのド素人の集まりに過ぎません。 これを乗り切るための
    秘策が根性論で、無理難題ばかりを押し付けて来るため、これに耐え切れない
    社員は辞めて行くこととなります。

    日本では、一旦社会に出てしまうと、3週間の長期休暇など夢のまた夢・・・
    こんな長期休暇を申請したら、即クビでしょうw 何でも感情的な日本人の
    場合は、話し合いをした振りをしているだけで、一切何の結論も生み出しません。
    うだうだと長い会議ばかりで、挙句の果てには、会議の準備のための会議、果ては、
    その会議の準備のための会議まであるため、逆に働く時間がありません。

    多くの日本企業の場合は、デフォルトで40時間程度の残業が含まれているため、
    当然、定時で退社するなどということは出来ない。 日本は全体主義国家で
    あるため、定時で帰る社員を決して見逃しませんw よって、勤務時間中は、
    適当に時間を潰して、残業時間になってから、ようやく重い腰を上げて、働き出す
    社員も多数存在している。 このため、日本の労働生産性はあり得ないぐらいに
    低く、ドイツ人の倍近くも働いている(振りをしている)のにも関わらず、
    ドイツ並みの生活の余裕は当然ありません。

    日本は放置国家であるため、国が労働者を管理することはなく、名ばかりの
    厚生労働省や、労働基準監督署自体がブラック企業であるため、自らを律する
    機能がなく、企業が都合の良い低賃金労働者ばかりを求めた結果として、
    ブラック企業だらけの社会となりました。

    日本企業の特徴
    • 全体主義で個人の職務内容が全く分からず、協調性ばかりが重視される
    • 何があっても、ホウレンソウで誤魔化す
    • 専門職として働くことはなく、総合職という意味不明な職種を強要される
    • 自分の主張を口にすることが憚れるため、議論などもっての外
    • 風通しが悪く、パワハラ、セクハラ、マタハラ等の差別行為が横行している
    • 残業をするために働いているため、勤務時間中は、真面目に働かなくとも良い
    • 結果もプロセスも関係なく、根性論だけで乗り切る
    • 仕事と生活の境界性がないため、当然プライベートなどない
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    Institut für Forschung und Entwicklung von Sportgeräten (FES研究所)

    Screenshot-2019

    対応競技:
    陸上競技、自転車競技、カヌー、ボート競技、トライアスロン、セーリング、
    アーチェリー、水泳、そり競技(スケルトン、ボブスレー)、スピードスケート、
    スキー、障害者スポーツ(セーリング)

    東ベルリンに本拠地を置くスポーツ器具を専門的に開発するためのFES研究所は、
    旧東独のナショナル委員会によって設立された「ドイツ体育スポーツ学院」
    研究センター内のスポーツ器具開発部門として1963年3月1日に設立された。

    その研究設立目的は、当時の産業界では、このようなスポーツ器具を生産する事が
    出来なかったためで、国際レベルでのトレーニングや競技用スポーツ器具を東独
    選手のためにカスタマイズ、開発することであった。 その後、スポーツ器具の
    開発と生産ばかりではなく、人材と素材が連携する事により、抜本的な見直しが
    必要である事が認識された。

    1963年から1965年に掛けて、ボート、カヌー、セーリングの開発事業が始まり、 
    1965年3月1日、ベルリンのシェーネヴァイデにスポーツ器具研究開発拠点が
    創設された。 FES研究所が開発したスポーツ器具が最初に国際的な評価を受けた
    のは、木材密度ポリマーを代用する事により、ボート、カヌー、ヨット競技に
    軽量素材技術を導入した事であった。

    1968年から1970年に掛けて、FES研究所では1人乗りと2人乗りのソリの開発が
    始まった。 1972年の札幌大会では、FES研究所が独自に開発した競技用具が
    初登場し、この時に旧東独で最初のソリ競技の代表チームが立ち上げられた。
    ほぼ同時期には、スポーツ競技器具開発に加えて、第2の柱である、コンピュータを
    用いた測定技術部門が立ち上げられた。 測定と情報技術の進歩により、ボートに
    初めて計測機器が取り付けられた。 セーリング競技では、オリンピックの
    フィン級、フライングダッチマン級、後に、470級でも開発が開始された。
    測定技術におけるもう一つの目玉は、セーリング競技における徹底した再測定
    であった。

    1970年代、FES研究所は、テニス、クロスカントリースキー、陸上競技などの
    スポーツにおける様々なテストを行い、柔道マットの製造においては、最先端の
    合成ゴムを使用した。

    また、1970年にFES研究所は、現在ケムニッツ市にある旧産業コンビナートである
    「Textimaforschung Malimo 有限会社」と協力して、1984年から自転車競技の開発
    事業を開始した。 まず、繊維強化プラスチックの使用量を増やしたディスク
    ホイールの研究開発が行われ、1987年からは独立事業として、炭素繊維を
    使用した強化フレームの開発に取り組んだ。 1988年のソウルオリンピックに
    おいて、ドイツ自転車競技チームは、FES研究所が独自に開発した器具を用いて
    100kmのロードレースにおいて金メダルを獲得した。

    1988年の最大時には、センター内に合計で5施設が設置され、約180名の
    スタッフが雇用されたが、ドイツ統一後の1992年5月、現在のDOSB、連邦内務省、
    スポーツ連盟の後援により、FES研究所内の全面的な組織再編が行われた。
    現在、FES研究所内には50名のスタッフが働いており、そのうち25名が
    エンジニアと技術職員、20名が研究職員、5名が社内外の管理業務を行っている。

    1992年、ボブスレーにおける開発は、2人乗りボブスレーから開始され、続いて
    4人乗りボブスレーの開発が始まった。 1996年からは、アチェリーのト
    レーニング時に使用するカーボン繊維強化プラスチックを用いたシャフトの開発、
    1997年からは、スピードスケート用の技術器具もFES研究所が扱うようになった。
    2001年からは、スケルトン用の競技機器とソリの開発も行なっている。

    ドイツ統一後、FES研究所は、ライプツィッヒのIAT研究所と共に、予算制度が
    継続され、連邦政府によって資金提供されている。 法的には、FES研究所は、
    ライプツィヒの応用トレーニング科学調査研究所と共に、DOSBを代理して、
    直接予算提供を受けている。  スポンサー団体には、24の競技連盟、6連邦州の
    スポーツ連盟、ケルン・トレーニングアカデミー、DOSBが含まれている。

    FES研究所が最も成功した競技は、ボブスレーとそり競技であり、その多くは、
    現在も開発中である。 2014年ソチ冬季オリンピックの際、ドイツのボブスレー
    チームは競争力がなかったため、FES研究所は批判された。 その後、2018年の
    ピョンチャンオリンピック大会に向けて、ナショナルチーム監督であるレナ・
    スパイズ氏が、男子チームの競争力向上のため、FES研究所と共に新しい
    ボブスレーの開発を押し進めた。 2018年の冬季オリンピックでは、FES研究所が
    開発した器具を用いたドイツチームは、金メダル3つと銀メダル1つを獲得した。

    【ボブスレー 国別メダル獲得数】

    順位

    国・地域

    1

    ドイツ

    3

    1

    0

    4

    2

    カナダ

    1

    0

    1

    2

    3

    韓国

    0

    1

    0

    1

    アメリカ合衆国    

    0

    1

    0

    1

     

    合計

    4

    3

    2

    9

     
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    logo33

    ドイツ応用トレーニング科学研究所(IAT)は、1992年にライプツィヒで
    設立され、ドイツのエリートスポーツとジュニアスポーツのための中心的な
    研究所となっており、19の夏季競技と6つの冬季競技に対応した専属コーチが
    常駐し、約1,000人の選手をサポートしており、21の協力団体と長期的な
    協定を結んでいる。

    スポンサー団体には、24のトップ連盟、6連邦州のスポーツ連盟、ケルン
    トレーニングアカデミー、DOSBが含まれており、オリンピック・
    トレーニングセンター、連邦スポーツ科学研究所、各種大学のスポーツ
    科学機関と協力関係を結んでいる。

    研究所内では、社会科学、スポーツ医学、エンジニア、物理学、コンピュータ
    科学と連携しており、科学的なトレーニングが行われている。 合計で
    120名のスタッフのうち、約3分の2が専門教育を受けている。

    ghjvdcet

    ドイツ応用トレーニング科学研究所は、以下の部門により構成されている:

    3つの科学トレーニング部門

    【耐久競技】
    カヌー、ランニング/ウォーキング、自転車競技、ボート競技、水泳、
    トライアスロン、バイアロン、スピードスケート、クロスカントリースキー


    【パワー技術競技】
    体操、ウェイトリフティング、陸上競技、飛び込み、フィギュアスケート、
    スケルトン、スキージャンプ、ノルディック複合

    【技術競技】
    バドミントン、ハンドボール、ホッケー、バレーボール、ボクシング、柔道、
    レスリング

    【その他】
    スポーツ医科学(外来診療所、臨床科学検査室、人体測定、スポーツ心理、
    整形外科、パフォーマンス診断)
    科学センター(スポーツ情報学、情報技術、生体力学、強化測定所)
    付属設備(科学トレーニング情報、文章データベース、国別調査データ、
    学術図書館)

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    ウズベキスタンの移動手段は、タクシーが早くて便利
    ウズベキスタンの観光シーズンは、事前に鉄道のチケットを予約をしておかいないと
    座席がなかなか取れないため、タシケントからタクシーをかっ飛ばして、約600キロ
    離れたブハラまで移動し、3時間ほど観光をした後、更にタクシーで約300キロ
    離れたサマルカンドへと移動しました。 よって、この日1日のタクシーによる
    総移動距離は、900キロを越えました。

    タシケント南駅
    IMG_4185

    【ブハラ】
    IMG_4186
    IMG_4187
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    IMG_4190
    IMG_4191
    IMG_4192
    IMG_4193
    IMG_4196
    IMG_4197

    シルクロードの交易地 ブハラ
    ブハラは、シルクロードの交易地として繁栄を極めた悠久の都であり、
    旧市街には、今でもそのたたずまいがそのままの状態で残っています。
    完全にイスラムの世界であるため、1日に数回程、お祈りのために全ての
    業務が止まります。

    IMG_4219

    カラーン・ミナレット
    ブハラ観光のハイライト、カラーン・ミナレット。 1127年に建てられた
    カラーン・ミナレットの高さは48mもあり、当時のイスラム建築技術の粋を
    集めて建造されました。  このカラーン・ミナレットは、地球の歩き方の
    表紙にもなっているほど有名な観光地であり、「ミナレット」は「塔」という
    意味。 かつては塔の上に明かりが灯され、砂漠を渡る隊商の道標になって
    いたと伝えられている。 また、戦争の際には敵を発見するための見張り台
    としても使われていた。 カラーン・ミナレットは戦争や地震によって何度か
    破損されたが、その都度修復作業が行われた。 19世紀後半までは罪人を生きた
    まま袋に入れて塔の上から投げ落とす刑が行われていたため、「死の塔」の
    別名でも知られるようになった。

    【カラーン・ミナレット】
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    IMG_4213
    IMG_4215
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    IMG_4203
    IMG_4205
    IMG_4220
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    タクシーでの移動
    たった3時間のブハラ観光を終え、ここから更に300キロ離れたサマルカンドを
    目指します。 サマルカンドはブハラからは、乗り合いタクシーで約3時間、
    交渉の結果30ユーロで、バスターミナルが最後のブハラの地となりました。
    ウズベキスタンの白タク運転手は、横の連携が凄いらしく、乗り込んだ車1台で
    サマルカンドまで行くのかと思いきや、途中で2回他のタクシーに乗り換え
    されられました。 その度に、目の前でお金の受け渡しが行われるため、
    人身売買かと思いましたw  最終的に、サマルカンドへ到着したのは、
    午後10時半過ぎであったが、到着時、サマルカンドでは、一部地域で停電が
    発生していたため、ホテルに到着してからは、電気が使えず、そのまま
    就寝しました。。

    IMG_4226

    IMG_4228

    翌朝、テレビを付けたところ、ウズベキスタンでは、何故か熊本と沖縄の
    特集を放送していた。 旧ソ連邦諸国では、日本語の教育が盛んで、
    ウズベキスタンでも小学校から日本語を選択することが出来る程の親日国。
    この日は、サマルカンドの中心部にあるレギスタン広場では、イベントが
    開催されており、色々なアーティストがステージで演奏を行っていました。

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