横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    1500年代の初め、ヨーロッパの探検家たちははアジアの豊かな香料マーケットへの
    近道を探していた。 ポルトガルで生まれで、スペインの旗の下に航海を
    続けていた探検家、フェルディナンド・マゼランが東南アジアの水域に達した。
    一行は現在のマレーシアとインドネシアまで来た。

    【マゼラン上陸記念碑】
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    1521年、第2回の遠征でマゼラン隊は、レイテ島の南の小さな島、ホモンホンに
    達した。 近くのリマサワやセブに旅をし、マゼランは島民たちと友好的に
    交流した。 地元民はヨーロッパ人を歓迎し、キリスト教を受け入れることに
    同意した。

    しかし、マゼランの会った人々が全て友好的だった訳ではない。 マクタン島の
    支配者のラプラプはヨーロッパの様式を受け入れたり、ヨーロッパ人に支配される
    ことを拒んだ。 マゼランはラプラプたちを征服しようとしたが、ラプラプの兵は
    ヨーロッパ簡単に破ってしまった。 1521年4月27日、マゼランは戦闘で殺され、
    生存者はフィリピンを離れ、西へ向かって世界周航の旅を続けた。

    【ラプラプの像】
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    この敗北にも関わらず、スペイン人は太平洋の探検を続けた。 1545年2月には、
    ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがミンダナオ島に上陸し、後援者フィリップ王子
    (後の国王フィリップ2世)の名前をとって、島々をフィリピナスと名付けた。
    ビリャロボスは島々に永久的な居留地をつくることでスペインの権利強化を望んだ
    のである。

    食糧不足や地元民の敵意などから、彼の計画は失敗した。 それにも関わらず、
    スペイン人は最初の居留地をセブ島のサン・ミゲル(後のセブ市)に設立した。
    1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが更に発展させ、兵士400人と数人の
    宣教師が住み着いた。

    【マゼランクロス】
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    【初期のスペイン支配】
    住民たちは、ヨーロッパ人の支配に強い怒りを抱いたが、レガスピと軍隊は、
    次第に島民たちをスペインの勢力下に置いて行った。 その後もスペインからは
    兵士や宣教師たちが、相次いでやって来た。

    宣教師の勧めで、島民たちの多くがキリスト教徒となった。 その中でイスラム
    教徒は、兵士たちには最も征服するのが難しく、宣教師たちには改宗させるのが
    難しいグループだった。 中でもミンダナオ島のイスラム教徒たちは、最後まで
    スペインに屈しなかった。

    1571年、レガスピと軍隊はマニラを占領した。 ルソン島のイスラム勢力は
    少人数ながらスペインと戦ったが、結局敗れた。 ルソン島の山岳民族である
    イゴロット族もスペインの勢力拡大に抵抗し、ヨーロッパ人を悩ませ続けた。

    抵抗する島民の大半を抑えると、植民者たちは地域一帯を自分たちの主権拡大に
    役立てた。 マニラを南アフリカから太平洋を通って銀を運ぶ船舶のための
    重要な港にした。 中国の商人は、そこで磁器や絹、織物をスペイン人の
    持っている金と交換した。 これら初期の植民者は、とうもろこしを紹介し、
    米作地帯で灌漑システムを改善した以外には、フィリピン経済の発展に大した
    ことをしなかった。

    【セントニーニョ教会】

    600719b1

    【スペインによる占領】
    スペインはフィリピンの支配にあたって、住民たちが用いていた機構を拡大する
    ことにした。 政府の基本の単位は村、もしくは、バランガイで、村には住民たちの
    非公式の集まりで選ばれたダトゥー(支配者)が居た。

    ローマ・カトリックの僧侶たちは、宣教師として、また、植民地の行政の代表として
    バランガイに住んだ。 住み着くことで、彼らはダトゥーの選出に強い影響力を
    与えることが出来た。

    このようなスペイン人宣教師によるフィリピンの間接支配が、成功しなかった地域も
    ある。 ルソン島北部の支配者、ディエゴ・シランは1762年、スペインに反逆し、
    ビガンに自らの政府をつくった。 南の島々のイスラム教徒たちは、スペインの
    軍の前進基地を襲い、独立を達成した。

    18世紀後半、スペインは多くの反乱グループに対し、再び武力を使った。
    ヨーロッパ人はまた農業改革を進めた。 行政官は農民たちに、マニアアサ
    (ロープを作る)や、茶、タバコなど輸出作物の栽培を進めた。 植民地政府は、
    タバコの専売権を確立し、それは当局者たちに巨額の富をもたらした。

    1800年代の初め、スペインはイギリスやアメリカ合衆国、フランス、その他の
    国々の商人たちとの貿易のため、フィリピンを開いた。 サトウキビ、マニラアサ、
    タバコが主な輸出品となって、フィリピンの経済発展に役立った。

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    486年には、フランク族の王クローヴィスがそれまでガリアを支配していた
    ローマ人を破り、北ヨーロッパにフランク王国を建設した。 クローヴィスは、
    キリスト教に改宗したことでも知られている。 キリスト教は中東から
    ヨーロッパに伝えられた宗教であるが、フランク族は宗教上、西欧キリスト
    教会の主座を占めるローマ教皇に服従していたのである。

    クローヴィスの死後、王国は息子たちの間で分割され、勢力は弱まった。
    そこでゲルマン民族の中には、フランク族からの独立を主張する者が多く表れ、
    例えば、北ドイツに勢力のあったサクソン族は、キリスト教に激しく反発した。

    768年にフランク族の支配者となったカール大帝は、サクソン族を破り、中央
    および西ヨーロッパに領地を広げた。 こうして、800年にはローマ教皇レオ3世
    からローマ教皇の冠を授けられ、西ローマ帝国の復活を果たしたが、これは
    かつての西ローマ帝国と性格の異なるものであった。 数年の間にカール大帝は
    ゲルマン民族を統一し、西ヨーロッパにおける戦争や侵略に終止符を打った。

    また、首都アーヘンにて中央集権政治を確立、学校や修道院の建設を命じ、
    教育や学問を奨励した。 こうして進歩的な支配者であったカール大帝の
    監修の下、初めてドイツ語の辞書が編纂された。

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    カール大帝の死後、後継者たちは領地の支配をめぐって争い、843年には、
    孫3人が帝国を三分割することを取り決めたヴェルダン条約を締結した。
    この条約によって、ルートヴィッヒ2世はライン川東岸を含む東フランクを、
    ロタールはライン川西岸の中部フランクを、カール2世(禿頭王)は西フランク
    (後のフランス王国)を、それぞれ獲得することになった。

    9世紀になると、東方からの侵略者が東フランク王国に襲撃を企てるようになった。
    ドイツの諸侯は、王国を守るのに手柄があるごとに、王国から称号や領地を
    授けられ、これらの諸侯はやがて、ドイツ内に独立した公国をつくって行った。
    その中でも最も強大なサクソン、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、
    ロートリンゲンなどがあった。

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    1980年に再び政権の座に就いたトルドーは、カナダの統一を一層強固なものに
    するよう努力した。 また、イギリスとの絆を弱めることを目指し、『1982年
    憲法』を公布して、その目標を達成した。 これにより、憲法の改正はイギリスが
    関わることなく、カナダ人によって行われるようになった。

    1980年代になると、カナダの経済は悪化し、失業率は1930年代の大恐慌以来、
    最高値に達した。 1984年にトルドーは辞職し、次の総選挙では進歩保守党が
    勝利をおさめた。 ケベック出身の新首相ブライアン・マルルーニーは、カナダ
    経済の再建に乗り出した。

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    カナダ議会では、西部の石油の利権と東部の漁業権をめぐって、長年の間、意見が
    対立していたが、マルルーニーはそれを解決することにより、カナダが抱える
    経済問題をいくつか処理した。 しかし、彼が最も意欲を燃やしたのは、アメリカ・
    カナダ自由貿易協定(FTA)だった。 1988年の初めにアメリカ議会を通過した
    同条約の条項に従って、両国間の現行の関税はなくなることになっていた。
    カナダ議会はこの協定の批准をめぐって、激しく意見を戦わせたが、結論は
    出なかった。

    内閣内部の不名誉な事件とアメリカ・カナダ自由貿易協定の反対に直面した
    マルルーニーは1988年10月、議会を解散し、総選挙を行った。 野党はアメリカ・
    カナダ自由貿易協定に強く反対した。 この協定はカナダの独立を制限し、広範囲に
    渡る社会福祉計画の実施を妨げると主張したのである。 マルルーニーは、
    この協定が結ばれれば、貿易が推進され、従ってカナダ人の雇用の機会が増える
    という点を強調した。 11月の総選挙の結果、進歩保守党が引き続き政権を握った。
    この勝利により、国民がアメリカ・カナダ自由貿易協定を支持していたことが
    確認され、1988年12月、カナダ議会でこの協定が成立した。

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    インド洋と太平洋の間にあるためフィリピンは、海上交易を行う人々にとって
    便利な寄港地だった。

    フィリピンの南西、スマトラ島にあったスリ・ビジャヤ王国からも沢山の商人が
    やって来て、紀元前600年代までには、スリ・ビジャヤは太平洋の主要な交易勢力と
    なった。

    スリ・ビジャヤはフィリピンを含め、東南アジア全域に渡る海上ルートを支配した。
    スリ・ビジャヤによるフィリピンおよび東南アジア一帯の交易支配は、およそ
    500年に渡って続いた。 ビサヤ諸島というのは、彼らの名前から取ったものだ。
    彼らは、フィリピン諸島の宗教にも影響を与えた。

    スリ・ビジャヤ人は、紀元前6世紀にインドでゴータマ・ブッダにより始められた
    仏教をフィリピンに紹介した。 ヒンズー教を奉じるマジャパヒト王国は、
    1200年代の後半にジャワ島に出現した。 間もなく、フィリピンにおける海上
    ルートの支配者として、スリ・ビジャヤ人にとって代わった。 マジャパヒトの
    指導者たちは、支配地域にヒンズー教を取り入れようとはしなかったが、ヒンズー
    文化の多くの要素がフィリピンにも入った。

    例えば、フィリピン人の正装であるバロン(独自のシャツ)は南インド出身の
    ヒンズー人が身に着けている上着を改めたものだ。 フィリピン人はまた、
    ヒンズー教の言語であるサンスクリットから多くの言語を取り入れている。

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    【アラブと中国商人たち】
    スリ・ビジャヤとマジャパヒトの影響が強かった時代、アラブ人と中国商人たちも
    フィリピンにやって来た。 14世紀までには、アラブ人学者たちがフィリピン諸島の
    南部に上陸し、イスラム教を広めた。

    イスラム教は7世紀にアラビアで生まれた。 15世紀の中頃までには南の島々、
    特にミンダナオ島で多くの人々がイスラム教徒となった。 インド、マラッカ、
    ボルネオなどからもイスラム教徒の商人がやって来て、イスラム教を広めるのを
    手伝った。

    一方、中国人商人たちは、北からフィリピンにやって来た。 その多くはルソン島に
    上陸すると、絹や磁器をフィリピンの木材や金と交換した。 明の時代(1368年~
    1644年)、商人たちはルソン島に居住地をつくった。 例えば、リンガエン港は、
    その名を当時の有力な商人、リン・ガイエンから取ったものだ。

    15世紀の始めには、中国人指導者た北の島々のいくつかを治める程、中国の影響は
    強大となった。 中国人は南から来たイスラム教徒と衝突し、結果的には、多くの
    居住地を失うことにもなった。 1500年代の初めまでには、イスラム教徒たちは、
    勢力をルソン島のほぼ全域に広めた。

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    キング首相の後継者ルイ・サン・ローラン首相の下で、カナダは国際社会に
    積極的に進出するようになった。 国際連合(UN)の創設にも加わり、尽力した。


    1949年には、アメリカ合衆国および西ヨーロッパ諸国と共に、北大西洋条約機構
    (NATO)に加盟した。 国際問題に新しい役割を果たすようになったカナダは、
    朝鮮戦争(1950年~1953年)や、1950年代の中東戦争にも関わった。 国家間に
    紛争が起こると、停戦を監視する国連軍に兵を派遣し、しばしば停戦役を演じも
    した。

    しかし、国内では昔からの問題が再燃した。 フランス系カナダの小数民族である
    彼らの不満の声が再び上がった。 ケベックをカナダから分離独立させようという
    考え方が定着した。 分離主義者のグループが結成されたが、その中でも最も
    過激なのは、『ケベック開放戦線』というテロリストの集団だった。 新政党
    『ケベック党』は、ケベック州の行政における分離主義者を支持した。

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    1968年の選挙では、ケベック出身のフランス系カナダ人ピエール・トルドーの
    率いる自由党が勝利をおさめた。 新たに首相となったトルドーは、ケベックの
    分離主義者の問題を解決しようとした。 トルドー政権は、フランス語を英語と
    同等のものとする公用語法の制定に成功した。 彼は、カナダにおけるフランス系の
    伝統を公式に認めさせて、カナダの統一を図ろうとしたが、余り効果的では
    なかった。

    1976年、ケベック州議会で(ケベック党)が政権を得て、同党の党首ルネ・
    レベックが州首相の座に就いた。 レベック政権は、州政府がケベック独立に
    関する交渉権を握ることを提案し、州民投票でその賛否を問うた。 しかし、
    その提案は、反対約60%で否決された。 これにより、分離主義者の運動は
    後退した。

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    1970年代になると、反米感情が再燃した。 カナダの経済・軍事にアメリカ
    合衆国の及ぼす影響が強くなって来たことを、カナダ人は心配したのである。
    カナダの企業の多くは、アメリカ資本に支配されていた。 カナダの貿易と
    財政の安定は、アメリカに頼るところが大きく、経済の好・不況は、必ず
    カナダにも反映した。

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    ドイツに人が定住するようになったのは、今から約65万年前のことであると
    考えられている。 だが、これら初期の人々については、殆んど何も分かって
    いない。 約10万年前になると、狩猟生活をしていたノルマン系の人々が、
    中央ヨーロッパ北部の森林や川の流域に移り住んだ。 現代になってその骨格は、
    デュッセルドルフ近郊のネアンデルタル谷で発見され、発見場所に因んで
    ネアンデルタール人と名付けられた。

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    紀元前400年までには、ケルト人が現在のドイツ南部と西部を含む中央ヨーロッパに
    住み着いて行った。 ケルト人は、農業を営み、家畜を飼い、農耕や戦闘用の
    鉄器を作り、また、鉱石から金、銀、銅を精製していた。

    【チュートン人】
    紀元前100年頃には、北ヨーロッパのチュートン人が、ケルト人を圧迫しながら
    ドイツに移住して行った。 同じ頃、イタリア半島を拠点としながら、勢力を
    伸ばしていたローマ帝国の軍隊が、ライン川西岸のケルト人を征服した。 この
    ライン川は後に、ローマ帝国の属州ガリア(現在のフランス)と、ゲルマニア
    (ローマ人はライン川東岸にあるチュートン人の領土をこう呼んだ)との境を
    成す事になる。

    ゲルマニアの森林が深いため、ローマ人はチュートン人の農地や村落を征服する
    事が出来ないので、ライン川とドナウ川との間に要塞を築き、チュートン人が
    ガリアやイタリアに侵入するのを防いだ。

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    しかし、紀元前4世紀までに、ローマ帝国はチュートン人の攻撃によって次第に
    衰退し、395年、帝国は東西に分断された。 これを機にゴート族やフラン族等の
    ゲルマン民族は攻撃を仕掛け410年、ゴート族はイタリアに進撃を仕掛し、首都の
    ローマを焼き払った。 ローマ皇帝は軍事力強化のため、ローマ軍にゲルマン兵を
    雇い入れ、ゲルマン人の指揮官の下で働かせた。 しかし、このような指揮官の
    ひとりであったオドアケルが、467年ローマに反逆し、首都を攻撃すると共に、
    皇帝を廃して、自らイタリアの支配者となった。 こうして西ローマ帝国は崩壊し、
    フランク族等のゲルマン民族がライン川を渡って、ガリアにあるローマ領を占領する
    ようになる。

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    2017年10月10日、株式会社ブランド総合研究所が今年で12回目となる
    『地域ブランド2017』を発表した。 全国の消費者 3 万 745 人からの回答を元に、
    認知度や魅力度、イメージなど全78項目からなるランキングだが、注目は
    『都道府県の魅力度ランキング』である。
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    上位は例年通り、1位北海道、2位京都府、3位東京都と不動の3県となっているが、
    4位沖縄県、5位神奈川県、6位奈良県、7位大阪府の上位7位までは、昨年と全く
    順位が同じ。 1位は9年連続で北海道となっている。

    注目の最下位争いは、安定の茨城県。 他の北関東の41位群馬県、43位栃木県は
    昨年と比較して、若干順位を上げたが、茨城県は、全く動かなかった。 南関東に
    属している筈の44位埼玉県も、常に最下位が射程距離内となっており、全く持って
    予断を許さない。 過去に再開に沈んだ県は、茨城県を除くと群馬県のみだが、
    埼玉県も十分に最下位を取れるだけの材料が出揃っている。



    【都道府県の魅力度ランキング2017】
    1位: 北海道
    2位: 京都府
    3位: 東京都
    4位: 沖縄県
    5位: 神奈川県
    6位: 奈良県
    7位: 大阪府
    8位: 福岡県
    9位: 長野県
    10位: 石川県

    11位: 長崎県
    12位: 兵庫県
    13位: 宮城県
    14位: 静岡県
    15位: 愛知県
    16位: 広島県
    17位: 青森県
    18位: 鹿児島県
    19位: 千葉県
    19位: 宮崎県

    21位: 大分県
    21位: 熊本県
    23位: 富山県
    24位: 秋田県
    25位: 山梨県
    26位: 新潟県
    27位: 島根県
    28位: 高知県
    28位: 滋賀県
    30位: 三重県

    31位: 和歌山県
    31位: 山口県
    33位: 香川県
    34位: 愛媛県
    34位: 岩手県
    34位: 福島県
    37位: 岐阜県
    38位: 山形県
    39位: 福井県
    40位: 岡山県

    41位: 鳥取県
    41位: 群馬県
    43位: 栃木県
    44位: 埼玉県
    45位: 佐賀県
    46位: 徳島県
    47位: 茨城県



    市町村の魅力度ランキングでは、この 10年間1位から3位までを京都市、
    函館市、札幌市の 3 市が独占。 今年は仙台市や広島市、福岡市といった
    地方中核都市の評価が上昇しました。

    【市町村の魅力度ランキング2017】25位まで
    1 位: 京都市 京都府
    2 位: 函館市 北海道
    3 位: 札幌市 北海道
    4 位: 小樽市 北海道
    5 位: 鎌倉市 神奈川県
    6 位: 横浜市 神奈川県
    7 位: 神戸市 兵庫県
    8 位: 金沢市 石川県
    9 位: 富良野市 北海道
    10位: 屋久島町 鹿児島県
    11位: 仙台市 宮城県
    12位: 日光市 栃木県
    13位: 那覇市 沖縄県
    14位: 福岡市 福岡県
    15位: 軽井沢町 長野県
    16位: 熱海市 静岡県
    16位: 伊豆市 静岡県
    18位: 箱根町 神奈川県
    19位: 別府市 大分県
    20位: 登別市 北海道
    21位: 名古屋市 愛知県
    22位: 渋谷区 東京都
    23位: 長崎市 長崎県
    24位: 新宿区 東京都
    24位: 旭川市 北海道

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    セブ島滞在3日目は、たまたま、ネットで発見した、地元では何でも願いが叶う
    教会として非常に有名な、シマラ教会へと行きました。 セブ・シティーの
    南バスターミナルからバスに揺られること丸2時間、 セブ島南部にある、
    シボンガという街の郊外にこの巨大で豪華絢爛な教会はあります。

    【シマラ教会】
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    セブ島には、バス停というものが存在しないため、降りたい場所をあらかじめ
    車掌に伝え、希望の場所で降ろしてもらいます。 シマラ教会への行き方は、
    南バスターミナルからオスロブ行きかシボンガ(シマラ)行きのバスに乗ります。
    今回は、たまたま朝5時40分南ターミナル発のシボンガ(シマラ)行きのバスに
    乗りました。 このバスは冷房なしのため、窓は全開、ドアも閉まりません。

    バスの種類は、大きく分けて冷房付きと冷房なしに分かれるのですが、バスの
    種類が全く異なるのに、料金は同じ80ペソ(160円)です。 シマラ教会は、
    現地のツアーでも行けるのですが、セブのオプショナルツアーは、大体が1万~
    2万円が相場であるため、このバスがいかに安いのかが分かると思います。
    シボンガの中心部から更に15分程度行った何もない場所がシマラです。

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    セブ・シティーは渋滞だらけで、シマラ教会までは、2時間半程度掛かると聞いて
    いたたため、かなり早めに宿を出たのが功を奏し、午前7時20分には、シマラ教会の
    前に到着しました。 教会が開くのは午前8時からであるため、ここでソーセージ
    (10ペソ)と卵(15ペソ)を朝食として取りました。 朝食を歩きながら食べて
    いる間に、急に雨が降り出しましたが、15分程度であっという間に止んだため、
    教会が開いた頃には、すっかりと晴れ渡っていました。 神聖な教会内は、ドレス
    コードが厳しく、短パンやサンダル等は禁止されているため、シマラ教会を訪れる
    際には、服装に気を付けましょう。

    シマラ教会は、フィリピン人の憧れの地で、一生に一度は行きたい場所だとか。
    日本で言うところのディズニーランドのような場所で、豪華絢爛なその見た目も
    ディズニーランドそのもの。 何でも願いが叶う教会では、お布施やお賽銭のような
    ものは必要なく、実際に願いが叶った際に、お礼参りを行い、色々な物を寄進する
    そうです。 早い話が、願いが叶わなかった場合は、一切何も供える必要性なし。

    教会内に限らず、セブは野良犬が非常に多く、普通に道を歩いていました。
    教会内にも多数の野良犬がおり、フィリピン人のおおらかな国民性を見た気が
    しました。 午前8時の開門と共に、中に入り、早速教会内探検の始まりです。

    シマラ教会は、非常に巨大な教会であるため、教会の中まで入るまでが大変。
    未だ未完だそうで、あちこちで工事が進められていました。 尚、シマラ教会へは、
    南バスターミナルからシマラまでが1時間半弱で80ペソ(160円)、その後、シマラ
    からのバイクタクシーが5分で20ペソ(40円)で、合計でも2時間掛からずに
    到着する事が出来ました。

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    教会の内部は、カトリックの教会と言うよりも、聖母マリア様の教会という感じが
    しました。 よって、幼い頃のキリストの像が多く、内部の博物館では、色々な
    国のマリア様の像が並んでいます。 カトリックとプロテスタントとの代表的な
    違いのひとつに、聖母マリア様を敬うかどうかというものがありますが、
    カトリックは、マリア様を非常に敬うため、このような豪華絢爛な教会となって
    います。

    教会内には、様々なマリア様とキリストの像が並んでいますが、観光客はさほど
    おらず、地元の巡礼者の方ばかりで、敬謙なクリスチャンでなくとも、心が洗われる
    想いがしました。 教会内の売店では、数々のキリストグッズが大量に販売されて
    いますが、結構高い。 信心深い人であれば、この値段でも購入すると思うのだが、
    とりあえず、お手ごろな十字架を1つ購入しました。

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    シマラ教会で最も奥の間にあるこの教会のご本尊的な存在のマリア像。 この像は、
    非常に人気があるため、ものの10秒程度しか願い事が出来ないという、とても
    ありがたい像です。 その手前にあるマリア様の像は、1名に付き1分以上もお祈りを
    するため、朝早く行かないと、30分以上も待たされる事となるため、早めに
    この教会に到着する事をお勧めします。

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    シマラ教会の内部は、無数のマリア像とキリスト像がありますが、それぞれの像に
    願いを掛ける人たちが多数居るため、木像の足の一部が若干削れています。 日本で
    言うところのお遍路のような感じにあたるため、カトリックが国教のフィリピンの
    中にあっても、かなり特別な教会のようです。 教会内の博物館中には、世界中の
    マリア像、並びに、キリスト像を展示しているフロアーがあります。 ここでは、
    中国風のマリア様やインド風のマリア様が多数展示されています。

    約1時間半程で、シマラ教会ともお別れ。 カトリックとプロテスタントの違い
    として、教会が豪華か質素かの違いがありますが、カトリックの教会は非常に
    豪華絢爛なので、その分をどこかに寄付として渡してあげた方が、人助けになると
    考えてしまうのは、プロテスタントに毒されているからなのか。

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    シマラ教会付近は、教会内部の豪華絢爛な雰囲気とは似ても似つかぬ貧困地域
    なので、教会を一歩外に出ると、現実を突きつけられます。 最寄のシマラの
    バス降り場(セブにはバス停と言う概念がない)は、こんな感じになっており、
    車掌に前もってシマラ教会の最寄でバスを降ろしてくれるように頼んでおかない
    限り、この教会には到達出来ません。

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    この場所から坂道を登ること5分程度にあるのが、豪華絢爛なシマラ教会です。
    バイクタクシーの値段は交渉性で、行きは30ペソ(60円)、帰りは20ペソ(40円)
    でした。 ここから頑張れば40分程度で歩いてシマラ教会まで歩いて行く事も出来
    ますが、60円程度であれば、バイクタクシーを利用した方が断然便利です。 尚、
    シマラ手前のシボンガ市中心部でバスを降りてしまうと、シマラ教会までは、20~
    200ペソ(40円~400円)程度請求されるとか。 最後は、セブ・シティー行きの
    バスが通り掛った際に、手を上げてバスを止めてからバスに乗りこみます。

    シボンガからセブ・シティーまでの帰りのバスは冷房付きで、座席もそこそこバネが
    利いていたため、行きのバス程は揺れが激しく、早朝に起きて寝不足もあって、
    途中で1時間程度寝込んでしまいました。 冷房なしのバスの場合は、揺れが
    凄まじく、お尻が席から何度も浮く感じの揺れ方をするため、居眠りは絶対に
    無理です。

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    セブ島南部にある諸都市へのバスは、南バスターミナルから出ています。
    ここから北ターミナルへは2キロ以上も離れているため、タクシーで移動するしか
    ありません。 南ターミナルの方がセブ中心街へは近いため、ここから1キロ程度
    歩いて、中心部へと向かいました。

    セブ島では、基本的にバスが一切走っていないため、バスは都市間を結んでいる
    高速バスしかありません。 空港とセブ・シティーを結ぶバスもありません。
    全体的にバスが不足しているのだと思います。 バスターミナル付近は、路上に
    商品を広げた人たちが多く、活気がありますが、特に欲しい物はないため、素通り
    しました。 フィリピンでは、手にビニール袋をして手づかみでご飯を食べるのが
    普通らしい。

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    午前5時40分に南ターミナルを出発したため、午前11時20分にはセブ・シティーへと
    戻って来てしまい、予定よりも2時間程度余裕が出来たため、最後はセブ・シティー
    中心部を散策しました。 最後に食べた昼食は、地元で大人気のハンバーガー
    ショップのジョリービー♪ ハロハロは、フィリピンが発祥らしい。 全て残金を
    逆算して不要なペソを使ってスーパーで買い物をしたため、最終的に残ったペソは
    5ペソのみ。 これだけ食べて164ペソ(328円)でした。 但し、最後に空港で
    750ペソを現地通貨で支払わなければならなかったため、この努力は無駄でした。
    クレジットカードでの支払いは出来なかったため、空港で再度ペソに両替をする
    こととなりました。

    セブ・シティーの全体的な雰囲気としては、70年ぐらい前の終戦直後程度の生活
    レベル。 ちょっと裏通りに入ると、非常に汚い。 果物は大体10~25ペソ前後
    でした。 果物は、日本でも見たことがないようなものばかりで、物価も非常に
    安いため、街角で色々な果物を試して見るのも良いかも知れません。

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    マクタン・セブ国際空港は、セブ島にあるセブ・シティーからは、タクシーで
    丸1時間程度掛かります。 空港内はかなりリゾート地らしいのですが、空港から
    一歩外へ出ると、雰囲気が全然違うため、ホテル周辺のリゾート地とこの空港だけ
    しか見ていない場合は、セブ島は単なるリゾート地としてのイメージしか残らない
    かも知れません。

    マクタン・セブ国際空港では、出国時に750ペソを現金で支払う必要性がたるため、
    手持ちのペソが足りず、一旦空港で全ての手続きを済ませてから、再度両替のために
    空港の外に出ることに。 現金でしか支払いが出来ないのであれば、窓口の直ぐ
    隣りに両替所を置いておいてくれれば良いものを、そんな気の利いた施設はセブには
    ないため、いっそのこと、通常通り、支払い時に出入国税と空港利用税を全て
    あらかじめ徴収して欲しいです。 帰りの飛行機は、セブ空港からは4時間40分
    でした。

    【お勧めの一冊】


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    セブ島滞在2日目は、朝の4時半に起きて、4時50分滞在先を出発(まだ真っ暗)
    の後、6時30分セブ・シティー発の高速船『オーシャンジェット』に乗りお隣の島、
    ボホール島のタグビラランを目指します♪

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    セブ・シティーからタグビラランは約75キロ程度離れており、高速船でも2時間程
    掛かります。 船に乗りこむ際に、丁度朝日が昇って来たため、港付近が一気に
    明るくなりました。 今回は時間がないため、珍しくツアーに申し込みましたが、
    参加者は、自分を含めて3名のみというコンパクトなツアーでした。 最低催行
    人数は2名以上で、一旦2名分の料金を支払った後、2名以上の参加者が確保出来た
    場合のみ、後で半額返金されるという仕組みであったため、前もって2名以上が
    確定しているツアーを選びました。

    本当は、最後のセブ・シティーの部分の観光は、ディナーでなく、夜の街歩きを
    希望したものの、参加者が2名揃わなかったため、泣く泣く夜景&ディナーに切り
    替えましたが、最終的に、こちらで正解だったと思います。 尚、この高速船は、
    非常に冷房が効き過ぎており、この中での丸2時間は拷問に近いため、必ず長袖を
    持参しないと凍えます。

    【ボホール島】
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    1時間50分程度でボホール島最大の街、ボホール州州都のタグビラランへと到着。
    高速船は、かなりスピードを出していたため、時速50キロ前後で走行していた
    のではなないかと思われます。 朝日に見送られてのボホール島への旅は、単に
    冷房の効き過ぎで寒いだけでした(笑) しかも、朝方は気温が低いため、
    船内の気温は推定20度前後。 ここは冷蔵庫の中ですか?レベルの船内となって
    おります。

    ボホール島は、セブ島と同じビサヤ諸島内にあるとは言え、セブとボホールの
    言葉は、微妙に違うそうです。 同じセブ島内のビサヤ語でも、方言がかなり
    あるため、共通語としての英語は必須とのこと。 子供でも結構英語を喋れて
    いるのは、学校で習っているためか?

    タグビララン港には、日本語が喋れる現地ガイドが迎えに来ており、船を下りた
    早々、3名共トイレへと直行(笑) 船内は凍える程寒いのに、座席指定されて
    いるため、気軽に船内を歩くことすらままならず、港への到着をただひたすら
    待つばかりといった構図となっているため、現地の人間でも防寒具は必須と
    なっている。 20度前後の温度までは我慢出来るが、強風が船内を吹き荒れて
    いるため、どういう温度設定なのか、非常に疑問な船内となっている。 しかも、
    船を降りると、一気に35度ぐらいになるため、体調管理が難しい。

    【ターシャ保護区】
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    ダグビララン港から車で約40分。 今回の旅の最大の目的は、フィリピンにしか
    居ない固有の小型めがね猿『ターシャ』に会うこと♪ これを見るためだけに、
    遠路遥々やって参りました。 『ターシャ』はボホール島、ミンダナオ島付近
    にしか生息しておらず、セブ島には居ないという非常に希少なめがね猿です。
    全長は大人でも10センチ程度しかなく、尻尾は20センチ程度もあるという変り種。
    非常に繊細で、ストレスが加わると、硬い物に頭をぶつけて自殺するのだとか。

    原生林をずんずんと奥へ入って行くと、ところどころに看板が立っており、その
    付近にターシャがおります♪ 夜行性のため、日中はほとんど動かず、木にずっと
    しがみついており、たまに目を開けるその時が絶好のシャッターチャンス☆
    逆に、夜は非常にアクティブなようで、木から木へと飛び回るらしい。

    愛くるしさと、グレムリンのような一部キモさを併せ持つターシャは、
    ツアーパンフレットの写真のイメージ図通りに手で触れられるのかと思いきや、
    これ以上近づくことが出来ない。 フラッシュも禁止されているため、暗過ぎて
    なかなか良い写真が撮れず。 よくよく見ると、ヨーダにも似ているため、
    キモカワイイという表現が最も適切か? 若干グロいという感じもしないでもない
    ターシャは、ボホール島のシンボル的な存在で、島のどこに行っても、ターシャの
    お土産だらけ。

    フィリピンの製品は、全体的に低品質なので、買いたい物は特にないないものの、
    ここまで来たからには、何らかの『みしるし』が欲しいため、とりあえず、何かを
    買おうと物色をしたものの、やはり欲しい物がないので、船にターシャが付いた
    物を自分へのお土産としました♪ ターシャのぬいぐるみも、もう少しぐらい可愛く
    作ってくれないと、買いたくない(笑)

    【ターシャ保護区とチョコレートヒルズ】
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    【チョコレートヒルズ】
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    ボホール島を代表する観光地のチョコレートヒルズ。 山頂までは歩いて登るが、
    その途中は、アスレチック公園となっており、様々なアスレチックを楽しむことが
    出来ます。 周囲はジャングルのようなうっそうとした森なので、マイナスイオンが
    沢山出ています♪

    高さ30mほどの円錐形の丘が1,000個以上も連なるチョコレートヒルズ。 この丘の
    ほとんどは、珊瑚礁からなる石灰岩で出来ているため、木は育たず草に覆われて
    います。 乾季になると草が枯れ茶色の丘へと変化し、それがまるでチョコレート
    のように見えることから『チョコレートヒルズ』という名前が付いた。 大地から
    ほぼ同じ大きさの丘がポコポコと出ている不思議な地形が出来た理由として、現地
    では様々な伝説が伝えられて来ました。 一番有名なものが、昔2人の巨人がこの
    場所でケンカをした時、投げ合った石を片付けなかったからという伝説。 大昔に
    マグマの動きによって海底が隆起したために出来たとも言われていますが、いまだ
    真相は謎のまま。

    【ランチクルーズ】
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    ボホール島でのランチは、ロボック川を下りながらのフィリピン料理のランチ
    クルーズ。 ジャングルの中での川下りであるため、景色は余り変わらないものの、
    ここまで見事なジャングルは日本にはまずないため、非常に新鮮。 但し、
    ここでのビュッフェは、得体の知れないフィリピン料理であったため、同じツアー
    参加者の2名と戦々恐々しながらのお食事となりました(笑) 材料が何なのか
    一切分からないため、食欲が全く沸かないという、ダイエットにも最適な
    フィリピン料理。 真っ黒いトカゲの肉ような食べ物は、焼き鳥で、焼き鳥の
    缶詰と全く同じ味がしました。 その他、食べても結局何なのか分からず、疑問
    ばかりが残るお食事となりました。

    フィリピン料理を食べている間に、韓国人と台湾人それぞれ50名程度のツアー客が
    押し寄せて来たため、日本人ツアー3人組は、あっという間に少数派へ転落。
    アジアの観光客の中心は、韓国人と中国人ばかりで、日本人はかなり少ないとか。
    正に超貧乏大国日本のアジアでの凋落振りを実感した旅となった。

    日本はブラック企業の影響により、呑気に旅行を楽しむ時間もお金も一切持て
    ないため、生活レベルにおいて、日本は完全に中国と韓国にも追い抜かれて
    しまいました。 中国様に至っては、貧乏な日本など相手にする価値すらもう
    ないでしょう。

    ロボック川での川下りでは、終点地点に原住民達の村があり、そこで10分間の
    休憩中を取りました。 上半身裸の裸族であるため、首狩り族にしか見えない
    ものの、口から火を噴いたりと、サービス精神旺盛な原住民達でした。 男も女も
    上半身裸で生活をしており、この観光業が命綱となっている。 ボホール島を
    訪れる観光客は、ほぼ100%この川でランチをするらしく、かなりの人気となって
    いるため、帰りは迎えのバンが駐車場から出られず、非常に時間が掛かりました。

    この川下りは、約1時間ほどで、薄汚いセブ・シティーなどより、ボホール島の
    方が断然面白いため、時間があれば、絶対にボホール島を訪れることをお勧め
    します。 雰囲気的には、ワニやピラニアが出て来ても全くおかしくないレベルの
    ジャングルでした。

    【ロボック川ランチクルーズ】
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    【バクラヨン教会】
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    フィリピンでも最古の教会、バクラヨン教会。 4年前の地震によって破壊された
    ため、現在は改修工事中となっており、中には入れなくなっています。 その際の
    最大被災地は、このボホール島であったそうです。 バクラヨン教会の壁は全て
    珊瑚と卵で造られており、よくよく壁を見ると、珊瑚であることが分かります。
    スペイン統治時代の面影を強く残しているため、フィリピンに居ることをすっかりと
    忘れそうな建造物でした。

    ボホール島は、約30万人の住民が暮らしており、現在、ボホール島の直ぐ隣の
    島では、新しいタグビララン空港の建設が進んでおり、アメリカや日本からも
    ボホール行きの直行便が出来るそうです。 セブ島とボホール島は、結構違う
    ため、それぞれの楽しみ方も異なるため、日帰りツアーを活用して、ボホールを
    訪れて見るのもお勧めです。

    【血盟記念碑】
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    1565年、スペイン提督のレガスピとボホール島の領主シカトゥナとの間に血盟
    (ワインに互いの血を入れて飲み交わすことで結ぶ同盟)を結んだことを記念
    した碑。 当時の世界は正に大航海時代の真っ只中で、レガスピは金や香辛料
    などを求めてボホール島を訪れました。 しかし、その前にかの有名なマゼランが
    マクタン島にてラプラプ王との決闘を行なったこともあり、現地民からは敵対
    されてしまいました。 そこでレガスピは自分達は(マゼランのような)
    ポルトガル人ではないと必死に説得し、シカトゥナとの血盟に至った。

    【バクラヨン教会&タグビララン
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    【タグビララン】
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    ボホール島観光は、予定よりも2時間近くも早く終了してしまったため、ボホール州
    州都のタグビラランのスーパーマーケットでウィンドウショッピング♪ 食料が
    日本とはまるっきり異なっているため、何を売っているのか良く分からず。 物価は
    安いものの、特に欲しいものはないため、何も購入せず、フィリピンの庶民生活を
    観察してしまいました。

    フィリピンはカトリックが国教なだけあり、キリストグッズが至る所で販売されて
    いるものの、結構お高い。 安ければ購入しようかと思ったものの、日本円に換算
    しても安いもので2,000円以上。 朝6時半にセブ・シティーを出発したボホール島の
    滞在は、午後4時20分発のオーシャン・ジェットに乗り込み、これでおしまい。
    これから、冷房の効き過ぎた高速艇に再び乗り込み、セブ・シティーへと帰ります。

    【ピークス&フエンテ・オスメーニョ】
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    【ピークス】
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    セブ港から約40分掛けて、そのままピークスへと直行し、セブ・シティーの夜景を
    堪能。 この写真を撮影した直後に雨雲が急に出て来て、何も見えなくなりました。
    フィリピンは現在雨季であるため、突如として豪雨となり、ものの20分程度で
    カラっと雨が上がります。

    セブ・シティーは街中がかなり薄暗いため、夜景は余り期待していなかったものの、
    そこそこの夜景が楽しめたため、満足しました。 人口約80万人のセブ・
    シティーは、物価が安いという理由で、英語の留学先として脚光を浴びていますが、
    日本と比較して70年程度遅れているのと、英会話学校自体もそこまで安い訳
    ではなく、しかも、フィリピン人の英語は相当訛っているため、物価の安い
    カナダへ留学をした方が無難。

    セブ港からトップスへ向かう途中、トップス付近でがけ崩れが発生したため、予定
    していたフィリピン・レストランへは行けなくなったとの連絡が入り、急遽、その
    付近にある夜景の見えるイタリアン・レストランへ行くことに。 恐らく、
    フィリピン・レストランでは民族舞踊が見れた筈なのだが、フィリピン料理自体が
    得たいが知れないため、むしろ、無難なイタリアンの方がまし(笑) 基本的に、
    訳が分からない物は一切口にしない主義なので、グロい料理は無理です。

    【フエンテ・オスメーニャ】
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    最後は、滞在先であるセブ・シティー中心部のフエンテ・オスメーニャへと送って
    もらい、本日のツアーは終了。 この付近は24時間の店が多く、夜中でも屋台で
    バナナなどの果物が売られている。 朝の4時50分に宿を出発し、帰って来たのは、
    午後9時。 2日目もこのまま、宿の2件隣にあるマッサージ屋で3時間の
    フルコースを受けて、12時半に就寝しました。 因みに、翌日の出発も
    午前5時丁度(笑)

    【お勧めの一冊】


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    【セブ島へ】
    フィリピン中部の海に浮かぶ南国の島、セブ島へは成田空港から空路で4時間
    40分ほど。 マクタン・セブ国際空港は、セブ島のお隣のマクタン島にあるため、
    セブ・シティーまでは、タクシーで約1時間ほど掛かる。

    セブ空港からの公共交通機関は一切なく、タクシーを利用する以外の選択肢はない。
    空港を出て暫く歩くと、若干割高の黄色いホテルタクシーとかなり割高の白い
    タクシーの2種類しか選ぶことが出来ない。 セブ島内ではバスは殆んど走って
    おらず、庶民の足として利用されている、ジプニーやトライシクルも空港には
    乗り入れていない。

    現地のツアーガイドに聞いた話では、空港からセブ・シティーまでの平均的な
    タクシー料金は300ペソ程度だそうで、空港からの白のタクシーでは、大概500
    ペソを要求されるため、帰りのセブ・シティーから空港までのタクシーでは、
    行きは350ペソしか支払っていない旨を伝えたところ、400ペソになった。
    セブでは、何事でも一々値段交渉をしなければならないという、なかなか
    アジアチックなカオスな場所。

    【マクタン島】
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    空港を降り立ち、タクシーでまずは、最寄の観光地であるマゼラン記念碑へと
    向かったのだが、空港からこの場所までは300ペソであった。 バイクに荷台の
    ようなものを付けたトライシクルの方が安いため、トライシクルを探したところ、
    空港には乗り入れられないようだったため、仕方なく値段の高いタクシーに
    乗ることとなったのだが、通常のタクシーはどうせかなりボラれるため、
    最終的には、例え多少割高でも、黄色いホテルタクシーの方が安いと思う。

    この地には、マゼラン上陸記念碑とスペインからやって来たマゼラン一向に
    戦いを挑んでマザランを殺したこの地の領主であったラプラプの像があるため、
    それに因んで、マクタン島最大の都市の名前はラプラプ・シティーとなっている。
    マゼラン上陸記念碑周辺にあるお土産屋の値段は、日本人の感覚としては非常に
    安いものの、セブの平均的な月給は、1万2千円程度しかないため、それを考えると
    ここまでのタクシーの値段300ペソは、べら棒に高い。

    勇者ラプラプの像とその周辺は島であるため、綺麗な海が見えるのかと思いきや、
    セブ島も含めて、海は殆んど見えない。 南国リゾート地をイメージしてセブに
    来ると、完全に期待を裏切られるため、東南アジアの超ド貧乏な地域をイメージ
    して来る事をお勧めする。 リゾートホテルが乱立している極々一部の地域のみが
    リゾート地なのであり、マクタン島では、一歩外に出ると、観光客目当ての
    たかりが沢山集まって来る場所と心得えておいた方が良い。

    【マクタン島で何故か勝手に船に乗せられることに】
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    東南アジア名物、頼みもしないのに、あちこち連れ回されました。 ラプラプの像
    からは、海が全く見えなかったため、15分ぐらい歩けば、海が見えるだろうと思い、
    道路を歩いていたところ、現地の人たちから次々に声を掛けられたため、
    とりあえず、空港のそばにあるマリーナモールからセブ・シティー行きの格安の
    ワゴンタクシーが出ていることを思い出し、マリーナモールまで行きたいと伝えた
    ところ、100ペソ(約200円)と言われたため、とりあえずこのトライシクルに
    乗ることにした。 因みに、現地のトライシクルの初乗り運賃は8ペソ(約16円)。

    ここで、ついでに海が見たいと言ったのが運の尽き。 勝手に自分の船まで連れて
    行かれ、しかも、そのまま沖に出てしまった。。 その後、海上で料金を尋ねた
    ところ、5,000ペソ(約1万円=現地の月給並み)と言い出したため、とっとと岸に
    戻せと言うと、どんどん言い値が切り下がって来たものの、そもそも、空港では
    3,000円しか両替をしておらず、1,250ペソ程度しか持ち合わせていないにも
    関わらず、この船に乗っている間中、3人のお土産売りのおばさんらに囲まれて、
    お土産を買え!攻撃を延々とされた。。

    最後は、近所の別のショッピングモールまで乗せて貰う約束の筈が、何故か道端の
    タクシーが居るところで勝手に降ろされ、チップとして1,000ペソ(約2,000を)を
    要求されたが、日本円で1,000円しか支払わなかった。 当初は100ペソのみと
    言っていたくせに、5,000ペソまで勝手に切り上げるのは、東南アジア独特の風習と
    言って間違いない。 日本のおもてなしも、全く頼んでもいないのに、勝手に
    過剰サービスを強要されて多額のお金をふんだくられるため、システム的にかなり
    これに近く、アジアの国は基本的に嫌いだ。

    空港からの出だし早々、ボッタクリに遭遇してしまったため、気を取り直して、
    セブ・シティーへと向かった。 セブの人たちは、人間的には良い人たちが多い
    とは思うものの、要求して来る値段が日本円に換算しても高過ぎる。。 最後は、
    土産物売りのおばさんとさっきまで1個1,000ペソ(約2,000円)だと言われていた
    サメの歯の細工と、先日香港で35香港ドル(約500円)で買ったバッタ物の時計とを
    交換し、完全に元を取った(笑)

    【セント・ニーニョ教会とマゼランクロス】
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    タクシーでセブ・シティーに到着後は、セント・ニーニョ教会の前で降ろして
    貰ったため、そのまま目の前にあるセント・ニーニョ教会に入ったところ、
    フィリピン最古のカトリック教会だけあって、5,000名程度でミサを行っていた。
    フィリピンは敬虔なカトリックの国であるため、毎日午後3時と午後6時には、
    神のありがたいお言葉と共に、全ての業務が1分程度ストップする。 以前、
    オーストリアにも住んでいたが、同じカトリックの国でも、こうも違うものなのか
    と思ってしまった。 オーストリアには断食はあるのだが、こういうものは
    なかった。

    セント・ニーニョ教会では、皆ろうそくに火をともしていたので、周囲の真似を
    して5つぐらいのろうそくに火をともし、その場を立ち去った。 ミサは全て
    英語で行われており、フィリピン人の約75%が英語を喋れるという事を実感した
    ものの、フィリピンよりもハッキリ言って、香港の方が断然英語が通じる。
    フィリピン人の英語は、相当訛っているため、非常に聞き取り辛い。

    セント・ニーニョ教会の直ぐ隣には、マゼランが作ったとされているマゼラン・
    クロスがある。 マゼランがフィリピンを発見したのが1521年であるため、
    約500年前にマゼランによって作られた十字架がそのまま展示されていること
    になる。 マゼラン自体は、ラプラプ王によってマクタン島で殺された。
    マゼランはスペインからやって来たため、スペイン人なのかと思いきや、実は
    ポルトガル人。

    セント・ニーニョ教会、マゼランクロスのすぐそばにあるサン・ペドロ要塞は、
    スペイン統治時代に建設されたもので、現在その周辺はセブ港湾地区、独立広場
    となっている。 フィリピンは、スペイン統治時代が長かったため、そこかしこに
    スペイン時代の名残が残っている。 サン・ペドロ要塞は、フィリピン最古の
    要塞であり、初期のスペイン人入植者にとっての中心的な拠点であったもの。
    セブはフィリピンの歴史の始まりの地であるため、フィリピン最古のものが
    多数ある。 この影響で、セブ州で話されているビサヤ語の中には、時々
    スペイン語の単語が残っており、ビサヤ語は何となくスペイン語に響きが似ている。
    フィリピンは、日本支配時代とアメリカ統治時代を経て独立を果たしているため、
    英語に似た単語も多数含まれている。

    【サン・ペドロ要塞とカルボン・マーケット】
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    セブ港のそばにあるフィリピン最古の要塞、サン・ペドロ要塞。 夜は
    ライトアップされており、午後7時半まで中に入ることが出来る。 直ぐ隣には
    独立広場があり、共にセブ・シティーの中心部にある。 セブ・シティーは実は
    余り観光化されていないため、主な見るものとしては、サン・ペドロ要塞、
    セント・ニーニョ教会とマゼランクロスぐらいしかない。 この後は、
    ナイトマーケットへと繰り出したが、台湾や中国のような華やかなマーケットだと
    思っていたところ、大きな勘違いであったことに気付いた(笑)

    セブ・シティー市民の台所、カルボン・マーケットには、実は観光客は殆んど
    おらず、現地の人たちばかりなので非常に雑多。 アジア的なカオスな場所が
    好きな人以外は余りお勧め出来きない場所となっている。 カルボン・
    マーケットは、 人ごみが凄いため、スリに気をつけるようにとガイドブック
    には記されていたが、そこまでの危険性は感じなかったものの、基本的に非常に
    暗いため、何を売っているのか、良く分からない。 カルボン・マーケットは、
    実際のところ、道に物を広げただけの戦後の闇市と言った方が分かりやすい。
    雰囲気的に、正に70年ぐらい前といった感じ。

    カルボン・マーケットから滞在地であるフエンテ・オスメーニャまでは、約2キロ
    程度離れており、セブ・シティーではバスが一切走っていないため、フィリピン
    独自の乗り物、ジプニーで移動しようかとも考えたものの、さほど遠くないため、
    街をぶらぶらしながら、歩くことにした。

    【フエンテ・オスメーニャ】
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    セブ・シティーは、全体的に街が暗くて汚いため、夜の一人歩きは余りお勧め
    出来ないが、途中で何ヶ所かナイトマーケットを見つけたり、格安のマッサージ屋を
    見つけたりと、それなりの収穫があった。 滞在地としては、カルボン・マーケット
    周辺、あるいは、フエンテ・オスメーニャが最もお勧め。 どちらも24時間営業の
    店が多いため、夜遅く到着しても大丈夫。

    カルボン・マーケットから約2キロ離れたフエンテ・オスメーニャまでの途中では、
    かなりの数のジプニーとすれ違ったが、この乗り物にはバス停と言うものが存在
    せず、自分で降りる場所を運転手に伝えて降りる仕組みであるため、現地の人間
    以外は非常に使い辛い。 セブ島にはバス停が一切ないため、バスの乗り降りは
    全てこの仕組み。 しかも、定員オーバーで車体から人間がはみ出していることも
    日常茶飯事。 普通に車の荷台に人間が山盛り乗っているため、ある意味危険だが、
    ある意味見ていて面白い(笑)

    最後は、滞在地のフエンテ・オスメーニャにあるショッピングセンター内の
    Joliebee(フィリピンで人気のハンバーガーショップ)で遅い夕食を食べた。
    この後、午後9時からは、寝る間を惜しんで、3時間のオイルマッサージに行った。
    ここでは、3時間で600ペソ(約1,200円)のマッサージのフルコースを選択し、
    色々なマッサージの中から自分で選択出来るため、1時間フットマッサージ、
    1時間背中のマッサージ、1時間スウェーデン式マッサージをして貰った。
    日本では逆にオイル式のリンパマッサージがなかなかない(あったとしても女性
    限定が殆んど)のと、3時間もマッサージをやって貰うと最低でも2万円は取られる
    ため、かなりの破格値☆ 翌日の集合時間は午前4時50分だったのだが、午前0時
    30分、セブ島の滞在初日がようやく終わった。

    【お勧めの一冊】


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    都民ファーストの会が立ち上がる以前から小池百合子都知事を支えてきた都議の
    音喜多駿議員、上田令子議員がそれぞれ都民ファーストから離脱するという
    話が入って来た。

    まだ小池百合子都知事が都知事に当選したばかりで文字通り都議会での「少数与党」
    時代から小池女史を支えてきた3名のうち、八王子選出の両角穣都議を除く2名が
    都民ファーストの会から去ることとなり、党としての根底が揺るがされる
    こととなる。

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    これといった都政での実績もない小池百合子都知事だが、豊洲や2号線建設で失政を
    繰り返しており、更に、ここに来て『希望の党』を立ち上げて、国政にばかり
    前のめりになっている都知事では、これ以上はもたないとの噂も持ち上がって
    来ている中での離反劇であるため、『都民ファーストの会』、『希望の党』共に
    失速は避けられず、今回の騒動で、更に離反者が増える模様となっている。

    民進党リベラル議員への締め付けや選別を行ったお陰で、枝野議員らを中心とする
    『立憲民主党』が旗揚げされ、民進党内のレベラル派が大量に離れて行っている
    ため、『希望の党』を取り巻く環境は、更に厳しさを増したと言える。 そもそも、
    あからさまに『〇〇ファースト』や『思想の転換』を強要する裸の女王様に従う
    人間にまともな人間はいない。

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    今回、いきなりの離反者が発生したことで、都民ファーストの会も慰留に走った
    ものの、むしろ都議の支援者から「都民ファーストはまったく都民のことを考えて
    いないのではないか」と突き上げを食らうなど、国政へ軸足を移し、日本初の
    女性首相と政権交代を目論む小池都知事の足元が揺らぐ方向となっている。

    都知事に対する不信任案は、地方自治法により、都議会本会議で都議127議席の
    3分の2以上(83名)が出席し、4分の3以上(最低63名)が賛成すれば可決される。
    この場合、小池都知事は10日以内に辞職か、議会解散の選択を迫られることとなり、
    都議会を解散しない場合は、知事は自動的に失職する。

    【希望の党政策協定書】
    f76787f0ac

    都民ファーストの会や希望の党は、民進党議員の受け入れで持参金(事実上の
    公認料)や思想の転換を強く求める割には、立候補予定者に選挙資金を供出
    しないという党の方針の問題や、元都民ファーストの会代表の野田数さんの資金
    横領問題で東京地検特捜部に動きがあるとされるなど、小池氏の問題は多岐に
    渡っている。

    更に過去には、極右的な発言を度々繰り返しており、平気で過去の発言を覆すなど、
    以前から周囲から胡散臭さが消えなかった小池都知事に対して、都民からの突き
    上げは避けられず、前都知事である枡添氏のように、このまま東京都知事からも
    国政からも綺麗さっぱり消え去る日も実は近いのかも知れない。

    政治家が暴走を始めた際にこそ、国民ひとりひとりの声が大事となるため、今後
    とも小池都知事の言動には注視して行かなければならない。

    【お勧め出来ない一冊w】


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    考古学者たちは、大昔の人々の野営の跡や石器類をルソン島のカガヤン渓谷で
    発見した。 これらの品々は25万年前に遡り、当時この地域は、まだアジアと
    陸続きだった。

    アジア大陸の色々な方面から、様々な民族が陸路、フィリピンにやって来た。
    約25万年前には、弓矢を使う狩猟民族のアエタと呼ばれる人々がやって来た。
    これら新しい人々は、狩猟の他に、食料を確保するために植物を植え、耕作も
    行った。 およそ1万2000年前、地球の広大な地域の表面を覆っていた氷が
    溶け出した。

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    溶け出した大量の水により、フィリピンと他のアジアを繋げていた陸路は水没し、
    この時からフィリピンは島々になった。

    1500年から紀元前500年の間に掛けて、マレー人や現在の中国人、ベトナムから
    人々が太平洋をカヌーでやって来た。 彼らは沿岸に住み着き、先住民たちは、
    島の内陸部へと移動した。 新しい人々は洗練された石の武器や道具を用い、
    村に集団で住んだ。

    マレーからの新しい移住者たちは、労働用にカラバオ(水牛)を取り入れた。
    マレー人とその子孫たちは、ルソン島北部の山々を切り開いて段々畑を作り上げ、
    米作を行った、 こうして何世紀にも渡って、沢山のマレー人がフィリピン諸島に
    やって来た。

    【お勧めの一冊】


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    第二次世界大戦中、カナダはイギリスに協力して反独同盟に加わったが、直ちに
    徴兵したり、海外に兵を出したりはしなかった。 1941年の末、カナダはイギリス
    及びアメリカ合衆国と同盟し、日本に対して宣戦を布告した。 やがて、100万人
    以上のカナダ人の男女が従軍し、アジアやヨーロッパの戦闘に加わった。 死傷者は
    9万人を超えた。

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    1945年に終戦を迎えると、カナダは国内の改革に関心を向けた。 戦争で荒れ
    果てたヨーロッパやアジアの国々から、大量の移民がやって来た。 都市の
    人口は増大して、郊外が広がって行った。 住宅の需要が高まり建設業が繁栄した。

    キング牧師が目指したのは、全カナダ人の福祉を確立することだった。 同政府は
    失業保険、復員軍人恩給の充実、老齢年金の増額、医療制度の改善などをはじめ、
    広い範囲に渡る社会保障制度を立法化した。 この制度が一助となって、一般の
    人々の生活水準は上がった。

    他の分野においても、カナダの努力は目覚しい発展をもたらした。 アルバータ州で
    新しい油田が発見され、ケベックとオンタリオ両州では大量の鉱物資源が見つ
    かった。 交通が発達し、水力発電も増えた。 製造業は消費者の需要の増大に
    合わせて、生産を向上させた。 アメリカ合衆国を筆頭に諸外国がカナダの新しい
    工業に莫大な資本を投下するようになった。

    1949年、ニューファウンドランドは住民投票によりカナダ第10番目の州になる
    ことを決定した。 これはニューファウンドランドが始めてカナダの繁栄を認めた
    ことを物語っている。

    【お勧めの一冊】


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    【ベルリン】
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    ドイツ北東の平原にある人口346万人のベルリンは、1200年代にベルリンとケルン
    (ライン川沿いにあるケルンとは無関係)という2つの街に分かれていた。
    これらはシュプレー川の両岸に位置し、それぞれが商業の中心地であったが、
    1397年に合併し、1701年にはプロイセン王国の行政上の中心地となる。 1871年に
    ドイツ帝国が建設されて以来1945年まで、ベルリンはドイツの首都であった。

    第二次世界大戦でドイツが敗北した後、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、
    ソ連がベルリンを占領する。 後にベルリンは東西に分断され、東ベルリンは
    共産主義である東ドイツの首都となり、西ベルリンは本土から切り離されはしたが、
    西ドイツの一部として残った。

    東ドイツの共産党政権は、国民が西ドイツに逃亡するのを防ぐため、1961年に
    西ベルリンの周りに強固な壁を造った。 1989年に東ドイツ政府が国境を開くと、
    ベルリンの壁は壊され、ほどなく2つのドイツは再統合、連邦政府を西ドイツの
    ボンからベルリンに戻す計画が始まった。

    第二次世界大戦の爆撃でベルリンは大被害を被ったものの、いくつかの建物は戦災を
    免れた。 例えば、国立オペラ劇場や国立図書館は18世紀にまで遡ることが出来、
    帝国議会は19世紀後半にドイツの議会場として建築された。 西ベルリンのメイン
    ストリート、クーアフェルテンダム通りの近くには、ヴィルヘルム皇帝記念教会が
    たっている。 爆撃で一部破壊されたこの教会の残骸は、戦争をいつまでも忘れない
    ようにとそのまま残された。

    ベルリンは製造業の中心地でもある。 エレクトロニクス、機械、化学製品、
    鋼鉄、衣類、繊維、ゴム製品などが作られており、シュプレー川の工業港は北海、
    バルト海と運河で結ばれている。 ベルリンは重要な民間空港、軍事空港を備え、
    また、北ヨーロッパにおける鉄道網の中枢を成している。

    【その他の都市】

     1800年代に新しい産業が始まると、地方から仕事を求めてやって来る人々に
    よって、ドイツの都市は急速に発展した。 第二次世界大戦中には、多くの都市の
    中心部が損害を被ったが、戦後の復興によって大都市は再建された。 現在8,057
    万人の人口のうち、85%が都市に住んでいる。 これはヨーロッパでも随一の都市
    集中率である。

    【ハンブルグ】
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    人口170万人のハンブルグは、エルベ川のほとりに位置する北西ドイツの都市
    である。 810年にカール大帝により建設された時には『ハマブルグ』と呼ばれて
    いた。 12世紀には、北ヨーロッパの貿易共同体であるハンザ同盟に加盟し、
    これが解散した後も、ドイツの主要港として、『自由ハンザ都市ハンブルグ』
    という歴史的名称を名乗り続けている。

    ハンブルグの工業地帯では船舶、鉄製品、鉄鋼品、化学製品、光学機器、材木などが
    製造されている。 工業地域が広範囲に及び、また、大規模な港の設備があるにも
    関わらず、年の半分以上は緑で覆われ、公園も多い。

    【ミュンヘン】
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    バイエルン州の州都であるミュンヘンは、人口123万人で、芸術的な活気であふれた
    都市で、コンサートホール、劇場、美術館などは市の後援を受けている。 また、
    ドイツの巨大なビール産業の中心地であり、年に1度のビール祭り『オクトーバー・
    フェスト』は、世界各地からやって来る人々で賑わう。 この他、ミュンヘンでは
    自動車、飛行機、電子機器などが製造されている。

    【ケルン】
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    ドイツ最古の都市のひとつである人口100万人のケルンにまず移り住んだのは、
    古代ゲルマン民族のウビィー人であった。 現在ケルンで最も有名な建造物は、
    完成までに600年もの年月を要したケルン大聖堂である。 主な産業は化学製品、
    繊維、自動車、チョコレートであり、有名な香水『オーデコロン(ケルンの水)』は
    18世紀にこの地で初めてお目見えした。

    【フランクフルト】
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    ハプスブルグ家出身の多くは、フランクフルトの大聖堂で戴冠式をあげた。
    また、マイン川沿いのこの街は、ドイツで始めて選挙によって議員が選出された
    地でもある。 商工業の中心地であるフランクフルトには、皮革製品、薬剤、
    化学製品の工場があり、金融の中枢として、ドイツの中央銀行や証券取引所の
    本部が置かれている。 また、毎年開かれる国際書籍市には、多くの作家、
    編集者、出版業者が訪れている。

    【ドレスデン】

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    10世紀に開発が始まった人口50万人のドレスデンは、後にドイツの強力な国家
    ザクセン王国の首都となる。 美しい教会や人目を引く宮殿があるこの都市は、
    1800年代後半に製造業の中心地となった。 しかし、1945年の空襲により、
    建物のほとんどが瓦礫と化してしまい、現在建築家たちが教会や記念碑の再建に
    務めている。 また、近くにある街マイセンでは、1713年にヨーロッパ初の
    白色硬質磁器が作られた。

    【ライプツィヒ】
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    ドレスデンから北東およそ100km行ったところには、人口50万人のライプツィヒが
    ある。 河川や鉄道で巧みに連携されているこの街は、かつてはドイツの出版業の
    中心地であった。 現在は、多くの見本市が開催され、世界中の製造業者が訪れて
    いる。 ライプツィヒの工業には鉄鋼、化学製品、プラスチック、繊維、衣類など
    がある。

    【お勧めの一冊】


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    フィリピンの人口のおよそ41%は都市部に住んでいる。 マニラは首都であり、
    フィリピン最大の都市でもある。 更に、商業、金融の中心、国内一の港でもある。

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    【マニラ】
    マニラはルソン島の南西に位置し、マニラ湾に沿って集まる多数の小さな市と町
    から成っている。 マニラ市は160万人の人口を抱える一方、マニラ首都圏一帯で
    は800万人を超す人々が暮らしている。

    マニラはパシグ川によって2つに分けられている。 川の南にはスペイン植民地
    時代に建てられた古い城壁都市、イントラムロスがある。 更に南には、リサール
    公園(ルネタ公園としても知られている)があり、広大なオープン・スペースは
    市民の憩いの場や集会の場に使われている。 パシグ川の北はトンドで、人口が
    密集し、バラックの立ち並ぶスラムがある。 マニラにはまた、大統領官邸である
    マラカニアン宮殿がある。

    【ケソン】

    マニラの北東で接しているのはケソン市で、1948年から1976年までは首都で
    あった。 現在はマニラが首都だが、政府の多くの省庁は今もケソン市にある。
    フィリピン国立大学の中央キャンパスもケソン市にある。

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    【セブ】
    セブ島の東海岸にあるセブ市では、港が活気がある。 ビサヤ諸島の輸出品の
    大半はセブ市の港を経由している。 人口は50万人以上あり、フィリピンの
    大都市のひとつとなっている。

    フィリピン諸島最初のスペイン植民地の名残として、セブ市には沢山のスペイン
    様式の教会と共に、16世紀に建てられたサンペドロ要塞を残している。 また、
    1950年創立のサウスウェスタン大学を含めていくつかの大学が市内にある。

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    【イロイロ】
    もうひとつの主な港町は、パナイ島の南東部にあるイロイロ市で、1700年と
    1800年代に海賊たちがしばしば植民地を襲ったため、住民は石の望楼や、防衛の
    ための要塞を設けた。 イロイロ市は25万人越す人口を抱えた農産物交易センター
    であり、急成長する島の織物工業の商業センターでもある。

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    【ダバオ】
    ダバオ市はミンダナオ島の南東岸にある最も急成長中の市のひとつである。
    人口は80万人を超え、他の島からの住民も多い。 彼らは農業労働を求めて
    やって来る。 ココナツはダバオ港から世界に輸出されている。

    【お勧めの一冊】


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